平 裕介(弁護士・公法研究者)のブログ

主に司法試験と予備試験の論文式試験(憲法・行政法)に関する感想を書いています。

令和4年司法試験論文憲法の分析(5) 問題文のマークの方法と答案構成メモの例

4回にわたり令和4年司法試験論文憲法の分析をしてきて、いったん完結としたところでしたが、問題文のマークの仕方と答案構成(のメモ)をどう書いたかについては特に書いていなかったので、1回分追加して、写真で公表します。

(マーカーの仕方)


(答案構成)


マーカーの色ですが、蛍光ペンの緑が(一応)違憲側の事情で、ピンクは(一応)合憲側の事情です。
ただし、少しですが、両面的な事情もあるので、そこは当てはめ部分などを書く際に適宜調整したりもします。

答案構成では、骨子はしっかりめに書きますが、当てはめは殆ど書きません。また、判例名は書くようにしています。


なお、以上のマーク、答案構成に基づき作成した答案例は、以下のブログの、分析(3)と(4)です。

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以上、よろしくお願いいたします。

令和4年司法試験論文憲法の分析(4) 設問2の答案例

 

「国家からの自由と国家による自由という対抗図式でもって、いろいろな問題を見ていく場合に、簡単にどちらかの立場を100%採用して、それで割り切って事柄を解決することはおそらくできないでしょうし、またすべきでもないでしょう。実際には、いろいろな要因を考慮しながら、バランシングを考慮して、裁判官ならば結論を出すということになるでしょうが、しかし、問題を考える際には、いったん国家からの自由を突きつめるといったいどういうことになり、どういう問題が残るか。それから国家による自由の見方を突きつめるといったいどういう状況が想定され、またそこにはどういう問題点が残るのかというようなことを、押しつめて考えつつ議論をするということが必要なのではないでしょうか。」

樋口陽一『もういちど憲法を読む』(岩波書店、1992年)91~92頁)

 

 

 

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「令和4年司法試験論文憲法の分析(1)」~「令和4年司法試験論文憲法の分析(3)」の続きである。

 

 

これまで、新しい出題形式である「新・主張反論型」と、「旧・主張反論型」・「リーガルオピニオン型」との異同などについて考察し(「令和4年司法試験論文憲法の分析(1)」)、さらに、令和4年司法試験論文憲法の問題の元ネタ判例、司法試験考査委員(学者委員)の関心等との関係、そして作問の背景事情について分析を試みたのち「令和4年司法試験論文憲法の分析(2)」、答案構成の大枠等について検討し、設問1の答案例を示した(「令和4年司法試験論文憲法の分析(3)」)。

 

 

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今回は、以下のとおり、設問2の答案例を示す。

 

 

第2 設問2

 

1 決定①について

 

(1)23条について

 

ア 助成金交付請求権は保障されるか

 助成金交付請求権が23条で保障されるかという問題につき、Yからは、同請求権は抽象的権利であり、本件ではこれが具体化されているという反論が想定される。

 この点につき、近現代では科学技術の発展により多額の研究費が必要となっていることから、国家助成・補助という財政的な裏づけなしに研究者が自由な学問研究を達成することは非常に困難な状況にある[1]。また、学問研究の自由・研究発表の自由は、憲法19条・21条でも保障されうるところ、さらに23条によって「学問の自由」が保障されている趣旨は、学問研究に高い程度の自由が要求される点にあるものと解される[2]

 そこで、学問の自由には自由権的側面のほか請求権的側面もあるというべきであり、研究者が属する公立大学に対する助成金交付請求権も、学問研究の自由として保障されうると解すべきであるが、その内容が抽象的で不明確であることから抽象的権利といえ、その権利を実現すべき制度がある場合に限り具体的な請求権となると解すべきである[3]。そして、X大学はA研究所研究員の申請に基づく助成金交付制度を設けているから、Yの研究助成金100万円の交付請求権は具体化されており、Yには具体的な請求権がある。

 なお、いったん交付請求権を具体化した以上、大学の自治予算管理における自治[4])を理由にYの請求権を否定することは、研究者の学問研究の自由を十分に保障するという大学の自治の目的[5]にかえって反することになるので、できないというべきである。

 

イ 決定①は23条に違反するか

 上記アより、Yは、X大学側に対し、23条の趣旨及び本件助成金制度の趣旨・目的に適合するように解釈運用するよう請求する権利[6]を有しているといえる[7]。では、Xは、上記各趣旨・目的に適合する解釈運用を行っているか。

 この点につき、Yからは、A研究所のサーバー上にあるサイト「Y研究室」の運営等や、C主催の学習会への参加を含むYの国内出張に助成金が使われてはいるが、同サイトにはYの学術的な見解を載せているのあり、団体Cの目的も地域の環境保護にあるため政治的な団体ではないのであるから、助成金制度の趣旨・目的に反する使われ方はしていない、地域の環境保護はA研究所の目的や助成の趣旨に適合する、といった反論が想定される。

 これらのうち、については、YのX県の自然環境をいかした農業や観光業に力を入れるという観点から学術論文等は国内外の学会で高い評価を得ている[8]のであるから、上記サイトに載せている情報はYの政治的意見ではなく学術的な見解であって、研究活動に関するものといえる。次に、については、X大学側の前記(設問1の箇所で述べた)主張のとおり団体Cの活動に政治的な側面があることは否定できないが、他方でCの目的は地域での環境保護を進めることにあり[9]、これはYの研究テーマと重なることに照らすと、Cの活動や環境保護の見地からのX県の政策への批判は、実社会の政治的社会的活動東大ポポロ事件)だというべきではなく、日常的な実践知をYの研究体系に取り入れること[10]に資する真理の発見・探究のための研究活動の一環というべきである。さらに、につき、YはSDGsの理念と深く関わる自然環境に配慮した持続可能な地域経済[11]に関して研究しているところ、Yの研究は、現在のX県の企業を誘致する産業政策[12]に反する面があるとしても、少なくとも中長期的にみれば「地域経済の復興に資する研究活動」であるといえるから、A研究所の目的や助成の趣旨に適合する研究であるといえる。

 よって、助成金制度の趣旨・目的や、真理の探究という23条の趣旨に適合する助成金の使われ方だといえ、次年度も同様に上記各趣旨・目的に適する支出がなされる蓋然性が高いことから、Yの上記憲法適合解釈請求権[13]は認められる。ゆえに、決定①は、23条に違反する。

 

(2)21条1項について

 

ア 表現の自由の制限の点について

 仮に、Yの活動が研究活動(上記(1)イ②)とはいえず、実社会の政治的社会的活動であり、あるいはそのような性質の活動を多分に含むものであると捉えるとしても[14]、決定①は、Yの「表現の自由」(21条1項)を侵害しないか。

 この点につき、Yからは、Yの表現行為が消極的事情として斟酌され、助成金が不交付とされると、萎縮効果が生じることから、決定①はYの表現の自由を制約するというべきであるとの反論が想定される。

 確かに、助成金の不交付決定は、Yの表現行為を直接禁止するものではない。しかし、外国人の在留に関わる外交政策等に係る裁量判断の場合よりも、研究所の研究員としての地位・資格を有する大学研究者への助成金交付に係る専門的な裁量判断の方が、裁量の幅が狭いといえるから、助成金交付・不交付との関係でマクリーン事件の射程は及ばないというべきである[15]。また、直接の制約ではないものの、表現行為を行ったことを理由に助成金が不交付とされると、YのみならずA研究所の研究員である研究者らの表現の自由にも強い萎縮効果をもたらす[16]ことになる。

 したがって、助成金を不交付とする決定①は、間接的ではあるが、表現の自由に対する制限に当たるというべきである[17]

 

イ 大学の中立義務にも違反するか

 Yの表現の自由が上記のとおり間接的に制約されていることから、21条1項違反の判断枠組みにつき、Yからは、規制目的の重要性及び手段が目的との実質的関連性を要求する中間審査基準により違憲審査がされるべきという反論が想定される。

 しかし、表現活動に対する給付措置・国家助成の場合と同じく公的資源を用いるものである以上、研究活動への助成も研究内容による選別が本来的にありうるものとされることから、助成金交付に係る専門的判断について合理的な裁量が認められるといえ、かつ、助成金交付はX大学の大学の自治予算管理における自治)とも関わる事項といえる。そのため、上記中間審査基準のような比較的厳格な基準によるべきではない。

 もっとも、前記第1の1(2)イのとおり、公立大学も、国家と同じく、研究者の特定の意見を不合理に優遇したり、これに不利益を与えてはならないという中立義務を負うものと解されることから、決定①(・②)との関係ではYと対立関係にあるX大学としてもこのような中立義務を負い、これに違反すれば同項に違反するというべきである[18][19]

 そして、上記中立義務違反の判断については、上記合理的な裁量を一定程度尊重しつつも、その判断過程が不合理なものである結果社会通念上著しく妥当性を欠く措置といえるか否かで判断すべきである[20]

 この点につき、Yからは、Dなど一部の議員による批判があったことを重視すべきではない、C主催の講演会等の講師は無報酬の方が引き受けやすい、科研費等の存在を考慮・重視すべきではない、次年度の研究活動への重大な支障が生じる、Yの優れた業績や、これまでは研究員全員に交付されてきた点を重視すべきである、との反論が想定される。

 まず、については、Dなど一部の議員による政治的圧力ともいえる批判があったこと自体は助成の趣旨との関係で重視すべきものではなく、かつ、政治活動に助成金を使っても問題ないという誤ったメッセージをX大学が発したものと受け取られる具体的なおそれないしその相当の蓋然性があるとはいえず、不交付を基礎づける事情とはいえない。また、C主催の講演会等の講師は無報酬の方が引き受けやすく、講師の活動はYの表現の自由や学問の自由と関連性のある活動でもあるから、無報酬で講師を引き受けている点も不交付を基礎づける事情ではない。さらに、科研費等は別の助成制度であり助成の具体的な目的は異なるといえるから、その存在も不交付とするために考慮すべきものではない。他方で、数十万円であっても現実に次年度の研究活動への重大な支障が生じること[21]、及び、優れた研究業績がある点やこれまでは研究員には全員に助成金が交付されてきたこと[22]は、助成金が交付されるための積極事情として重視すべきものである。すなわち、④は、助成の必要性が高度であることを基礎づけるものだから、積極事情として重視すべきである。さらに⑤も、優れた業績の研究者に予算を配分するという助成の趣旨に沿う事情であるし、すでにA研究所の研究員は一定の優れた業績があるものと認められた研究者であるといえるから、研究員であること自体も積極事情であるといえる。

 よって、X大学側の判断過程には他事考慮考慮不尽に係る事情がみられ、判断過程が不合理なものである結果、決定①は、社会通念上著しく妥当性を欠くものというべきである。ゆえに、中立義務違反があるといえ、決定①は、21条1項に違反する。

 

(3)14条1項について

 

 A研究所ではこれまで研究員に研究助成が認められなかった前例がないこと[23]から、決定①が平等原則(14条1項)に違反しないかも問題になる[24]

 もっとも、本件の不交付という別異取扱いが合理的[25]な区別といえるか否かは、前記のとおり合理的な裁量が認められることから、上記(2)イと同じ判断枠組みによるべきである。

 よって、上記(2)と同様に、決定①は、平等原則(14条1項)にも違反する。[26]

 

 

2 決定②について

 

(1)教員の単位認定権は23条で保障されるか

 

 Yが「地域経済論」の単位付与に係る合否判定・成績評価を行う権利(単位認定権)[27]は、「学問の自由」(23条)のうちの大学教授教授の自由東大ポポロ事件)に含まれ、同条により保障されるか。Yからは、教授の自由の保障にとって不可欠の権利といえるから保障されるべきという反論が想定される。

 この点に関し、大学の学生は、自己の目標に応じてシラバスや授業ガイダンス等に基づき、教員の教え方等を考慮して特定の教師を選び、指導を受け、単位の認定を受けるべく研鑽するのであるから、仮にその指導教員とは別の教員が成績評価を行うとすれば、期待された教育指導上の効果を上げ得ないことになりうる。そのため、学生の教育を受け学ぶ権利(26条1項)の実質的な保障という観点からも、単位認定権は、教授の自由の保障にとって不可欠の権利というべきである。

 よって、単位認定権は、23条によって保障される[28]

 

(2)単位認定権の制約は許されるか

 

 次に、上記のYの単位認定権は、決定②によって制約されるところ、その制約は23条に違反しないか。

 この点につき、Yからは、23条で保障される重要な権利が直接的に制約されているから厳格審査基準(目的が必要不可欠、手段が必要最小限度)や上記中間審査基準により審査されるべきとの反論が想定される。

 しかし、学生の卒業資格の認定については、大学の自治の一内容としての教育研究作用を進めるうえでの自治[29]に係る事項というべきであるから、卒業認定と関連性のある単位認定権は当該教員の属する大学の自治との関係で一定の制限に服するものといえる。また、X大学側にも大学の自治に基づく学生の教育に関する一定の裁量が認められるといえる。ゆえに、23条違反か否かを厳格審査基準や中間審査基準により審査すべきではない。

 他方で、大学生は、児童・生徒(旭川学テ事件[30]の場合)とは異なり教授内容に対する批判能力を十分に備えていること、大学生側の大学・教員を選択する幅は広いこと、大学においては全国的に教育の機会均等を図る強い要請があるわけでもないことからすれば、旭川学テ事件と本件は事案が異なり、大学による単位認定の権能(権限)の範囲や上記学生教育に係る裁量の幅は狭いものというべきである。

 そこで、旭川学テ事件の「必要かつ相当」という判断枠組みよりは厳格な審査を行うべきであるから、(ⅰ)授業担当教員自身の単位認定を認めることより、学生に対する公正な成績評価[31]について支障が生ずる相当の蓋然性が認められ、(ⅱ)その支障の発生を防止するために必要かつ合理的な範囲に限り[32]大学による再試験実施等による成績評価・単位認定をなしうるものというべきであり、これらを満たさない場合には23条に違反するものと解する。

 この点につき、Yからは、ブックレットはYが共著者として執筆しているなど指定教科書[33]としても適当であること、団体Cへの加入への勧誘はあくまで学問的見地から行ったものであること、学生評価にも問題はないことなどから上記相当の蓋然性はなく、かつ、不合格者全員を対象に再試験を行っていることから上記合理的な範囲を超えているとの反論が想定される。

 このうち、については、ブックレットの共著者らが授業でゲストとして講演等を行っており、ブックレットが「貴重な学術的示唆」を含むと評価されている[34]ことから、ブックレットを批判する答案を書いた学生の多くが低い成績となった理由は学術的観点からの批判が十分に加えられていなかったからだというべきであり、ブックレットを批判しない者の成績評価との均衡を失するものではないというべきである。また、Yは講義中にCへの加入を勧めたが、団体Cの本来的な目的は前記のとおり地域の環境保護というYの研究テーマと重なる学術的側面のある団体であり、Cの構成員も上記のとおり学術的価値の高いブックレットの共著者に含まれていることにも照らすと、学術的関心の高い学生がCに加入・参加して高い成績となった傾向があるにすぎないし、加えて、C未加入の学生を一律に不合格評価としたわけでもないので事実上加入を強制したとは認められない。さらに、学生アンケートはそもそも成績評価と関連付けられるべき趣旨のものではないが、そのようなアンケートで6割以上の学生が4以上の評価をしているのであるから、授業内容や方法が著しく妥当性を欠くものであったとはいえず、授業内容・方法と密接に関連する出題やその成績評価が著しく妥当性を欠くとも認められない。したがって、上記(ⅰ)相当の蓋然性はあるとはいえない。

 また、「地域経済論」の不合格者の中には単に不真面目な学生も含まれている可能性があるから、不合格者全員を対象に再試験を行う必要性は必ずしも高くなく、かつ、異議申立てを行った学生だけを再試験可とし、個別に審査することが公正な成績評価という観点からは合理的といえるから、(ⅱ)必要かつ合理的な範囲を超えているともいえる。

 よって、決定②は、23条に違反する。

                                                                             以上

 

 

 

以上、令和4年司法試験論文憲法の設問2の拙い答案例を公表した。

 

できれば注(後掲注)の説明も含めご笑覧いただき、読者の皆様にとって何か1つでも参考になることがあれば幸いである。

 

 

 

(本ブログは、筆者が所属する機関や団体の見解を述べるものなどではなく、個人的な意見等を公表するものです。この点、ご注意ください。)

 

 

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[1] 栗城壽夫=戸波江二編『現代青林講義憲法〔補訂版〕』(青林書院、1998年)202頁〔戸波江二〕、大浜啓吉「学問の自由とは何か」科学86巻10号(2016年)1049頁(1054頁)参照。https://www.iwanami.co.jp/kagaku/Kagaku_201610_Ohama.pdf

[2] 辻村みよ子憲法〔第7版〕』(日本評論社、2021年)230頁。

[3] 芦部・憲法279頁、渡辺ほか・憲法Ⅰ368頁〔工藤〕参照。

[4] 佐藤幸治日本国憲法論[第2版]』(成文堂、2020年)(以下「佐藤・憲法」という。)274頁。

[5] 芦部信喜著・高橋和之補訂『憲法 第七版』(岩波書店、2019年)176頁参照。

[6] 木村草太『憲法の急所―憲法論を組み立てる 第2版』(羽鳥書店、2017年)(以下「木村・急所」という。)26頁参照。

[7] この部分までは、設問1と重なる論述が多いが、抽象的権利説で押し切るという答案政策を採ったことから以上、このような論述もやむを得ないというほかなかろう。なお、抽象的権利説ではなく、請求権構成を否定し、自由権(防御権)構成によるべき、という答案構成(設問2ではそう書く)も考えられるところではある。しかし、本答案では、判断枠組みを設問1と一緒にするという一種の政策的な判断を行っている。その方が主張反論私見が噛み合う(そのように見えやすい)と考えられるからである。

[8] 問題文第2段落参照。

[9] 問題文第3段落参照。

[10] 阪本昌成『憲法理論Ⅲ』(成文堂、1995年)180頁は、「人の知的営為が、個別的・実戦的な活動の集積によって、次第に体系化されて『学問』へと展開されることを考えた場合、理論上はともかく、実際に『学問/信仰』、『学問/表現』を識別することは、困難」であり、「人の知は日常的な実践知と体系的な技術知からなると考える立場からすれば、完成された知識体系だけを学問と呼ぶことは避けなければならない」(下線引用者)とする。

[11] 問題文第2段落2行目。

[12] 問題文第1段落参照。

[13] 木村・急所26頁。

[14] ここはこのように書かないと、21条1項の論点が一切出てこなくなってしまうことになりかねないので、仮定的な表現を用いている。

[15] 曽我部真裕「判批」(最大判昭和53年10月4日民集32巻7号1223頁(マクリーン事件)解説)憲法判例研究会編『判例ラクティス憲法〔増補版〕』(信山社、2014年)6~7頁(7頁)は、「新規入国の場合とその他の場合(在留期間更新の場合など)、あるいは、定住外国人(特に特別永住者)とそれ以外とでは裁量の幅が異なると考えることもできよう。」(下線引用者)とする。

[16] 小山・作法43頁参照。なお、設問1では、「萎縮効果」(同頁)の点には、重複を避ける目的からあえて触れず、設問2のYの反論の段階から言及することにした。また、平成27年司法試験論文憲法出題趣旨が次のとおり述べていることに照らし、YだけではなくY以外の者(ここではA研究所の研究員)にも萎縮効果が生じることに言及している。

〈同出題趣旨〉「本年のもう一つの問題は,表現の自由である。すなわちBは, 自分の意見・評価を甲市シンポジウムで『述べたこと』が正式採用されなかった理由の一つとされたことを問題視しているので,そこでは,内面的精神活動の自由である思想の自由の問題よりも,外面的精神活動の自由である表現の自由の問題として論じることが期待される。その際には,意見・評価を述べること自体が直接制約されているものではないことを踏まえつつ,『意見・評価を甲市シンポジウムで述べたこと』が正式採用されなかった理由の一つであることについて,どのような意味で表現の自由の問題となるのかを論じる必要がある。そのような観点からは,上述のような理由により正式採用されないことはBのみならず,一般に当該問題について意見等を述べることを萎縮させかねないこと(表現の自由に対する萎縮効果)をも踏まえた検討が必要となる。その上で,この点に関しては,正式採用の直前においてもBが反対意見を述べていることなどから惹起される『業務に支障を来すおそれ』の有無についての検討も必要となる。その検討に当たっては,外面的精神活動の自由である表現の自由の制約に関する判断枠組みをどのように構成するかが問われることとなる」(下線・太字強調引用者)

[17] 小山・作法43頁参照。

[18] 小山・作法204頁参照。この点は、中立義務以外の構成でも(「違憲な条件」論、「ベースライン」論、「専門家の介在」論(同203~204頁)などでも)書き得るところではああろうが、本答案例では、国家の中立義務の活用のみに言及することにした。したがって、他の構成を排除すべきとの趣旨に出た答案の叙述ではないことに留意されたい。

[19] この段落は、設問1と殆ど重複するが、やむを得ないだろう。

[20] この部分の判断枠組み(規範)は、主張・反論・私見が噛み合うように(そのように見えやすいように)するなどの目的で、あえて設問1と同じものとした。この判断枠組みに関しては、東京高裁令和4年3月3日裁判所ウェブサイト・令和3年(行コ)第180号映画「宮本から君へ」助成金不交付事件・高裁判決)でも、助成金不交付処分につき、いわゆる判断過程審査(正確にはそれに近い判断枠組み)が採用されたことを(一応)参考にしている(百選収載判例ではないことなどから、判例名は書いていない)。もっとも、同判決の判断枠組みは、実質的には1つの考慮事項(公益的事項なる事項)のみを重視することになってしまう、本来の判断過程審査とは異なる内容の独自の判断枠組みであるというべきである。このような判断枠組みが確定してしまうことは極めて不合理であることから、上告・上告受理申立てがなされている(本ブログ筆者は、上告人・上告受理申立人(原告・被控訴人)代理人の一人である)。

なお、この映画「宮本から君へ」助成金不交付事件の第一審の評釈(複数ある)については、前々回のブログ「令和4年司法試験論文憲法の分析(2)司法試験と政治」の後掲注(8)を参照されたい。

[21] 問題文第7段落5行目。

[22] 問題文第7段落6~8行目参照。

[23] 問題文第7段落7行目。

[24] 渋谷秀樹『憲法(第3版)』(有斐閣、2017年)438頁。

[25] 芦部・憲法132頁。「合理的」は、いわゆる「相対的平等」に係るキーワードである。

[26] この(3)の部分も設問1とかなり重複するが、やむを得ないだろう。

[27] 「単位認定権」の定義付けは、設問1の答案ですでに行っているので、ここでは本来は「単位認定権」とだけ書けば足りるが、読者への便宜上、再度「単位認定権」の内容を書いている。

[28] 大阪高平成28年3月22日LEX/DB25546469は、「指導担当教員の成績評価は憲法上の権利である教授の自由それ自体ではなく、教授に伴って付随的に生じるものに過ぎないこと、仮に、指導担当教員の成績評価に伴う権利又は利益が認められるとしても、それが控訴人が主張するようなものではなく、当該教員の学生に対する指導状況、当該教員が所属する学部の有する秩序維持の権能を行使する必要性等の観点から合理的制約を受けるものである。」(下線引用者)としており、「仮に」と留保は付けているものの、単位認定権が憲法23条に基づき認められうる余地がある旨判示したものと一応読める。もっとも、「付随的に生じるものに過ぎない」という判示や「仮に」と留保し積極的に「権利又は利益」であると判示していないことからすれば、この裁判例が、単位認定権は(教授の自由とは異なり)23条により保障されないと述べたものと理解することも十分可能だろう。このようなことから23条の権利の保障レベルで切ってしまい、あとは21条1項のところのように、大学の中立義務の問題にしてしまうという構成もありうるところではある。とはいえ、本答案では、あえてこのような構成を採らなかった。なぜならば、23条で保障されない権利だということにしてしまうと、23条違反か否かの判断枠組みの定立に際して旭川学テ判決を活用しにくくなってしまい、同事件を活用して判断枠組みを定立した設問1との整合性やバランス感を図れなくなってしまうからである。

[29] 佐藤・憲法274頁参照。

[30] 最大判昭和51年5月21日刑集30巻5号615頁、今野健一「判批」長谷部恭男=石川健治=宍戸常寿『憲法判例百選Ⅱ[第7版]』(有斐閣、2019年)296~297頁(136事件)。

[31] 問題文第8段落4行目「成績評価が著しく不公正」参照。

[32] よど号ハイジャック記事抹消事件(最大判昭和58年6月22日民集37巻5号793頁、稲葉実香「判批」長谷部恭男=石川健治=宍戸常寿『憲法判例百選Ⅰ[第7版]』(有斐閣、2019年)32~33頁(16事件))の①障害の生ずる程度についての「相当の蓋然性」基準と、②制限の範囲についての「必要かつ合理的」という規範を参考にした。

 この判断枠組みに関しては、本問のような(「法令違憲」が問われていないと考えられる)処分違憲の点だけを検討させる問題であっても(なお、平成21年司法試験論文憲法の問題では、「大学の『規則』自体の違憲性の問題と処分違憲が問題」(平成21年司法試験論文憲法出題趣旨)とされていた。)、一般的には法令違憲の審査に用いられるとされる目的・手段審査の枠組みを「応用」して、処分違憲の点(処分審査)でも(つまり令和4年の問題のような場合にも)目的・手段審査の枠組みで答案を書くことができないか?という問題がある。これは1つの大きな論点だといえよう。この点につき、判例実務は、中間審査基準などの目的・手段審査の枠組みを処分違憲の点に応用することには消極的であるといえる(駒村圭吾憲法訴訟の現代的転回――憲法的論証を求めて』(日本評論社、2013年)30頁も「処分審査においては、上記の諸判例を概観しても、目的手段の思考様式を用いて審査を行っている例は見当たらない。判例では少なくとも主流論証になっていないような印象を受ける。」とし、同35頁も「目的手段審査は、主に、法令審査における審査手法である。」とする。)。また、憲法学説は、大別すれば、【A説】処分違憲の点では目的・手段審査によるべきではないという立場(同書30頁以下参照)と、【B説】一定の場合には目的・手段審査を応用すべきという立場(高橋和之『体系 憲法訴訟』(岩波書店、2017年)279~280頁等)に分かれているといえるが、今日では【A説】の方が多数ではないかという印象を(筆者の印象ではあるが)受ける。そして、“司法試験業界”では、少なくとも旧司法試験時代は【B説】が主流であったように思われるが、今日の(少なくとも令和以降)司法試験では、(【B説】が絶対NGということはないだろうが、)できるだけ【A説】で論じるべきであろう。その理由は、(ⅰ)【A説】の方が実務的であり、「判例」への言及を求める司法試験も実務との整合性を要求しているとみられることに加え、(ⅱ)【B説】による場合にはそれなりにきっちりと適切な理由付け(高橋・前掲『体系 憲法訴訟』283~283等参照)を書く必要がある、というハードルを課されるものと考えられるからである。

[33] 問題文第5段落2行目。

[34] 問題文第4段落6~7行目。

 

令和4年司法試験論文憲法の分析(3) 設問1の答案例

 

「国家が費用や会場について支援することで作家の自由度を広げようというとき、同時に、こうした場面で国家がどう振る舞うべきかが新たな問題となってくる。ここでは、国家の支援を受けるからには国家の意向に従うべきだとする考え方ではなく、国家の『公』としての役割と中立性を確保し、支援を受ける芸術家が支援を前提としてもなお保障されるべき『自由』があることを確認することが必要となっている。」

(志田陽子『「表現の自由」の明日へ――一人ひとりのために、共存社会のために』(大月書店、2018年)189~190頁)

 

 

 

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「令和4年司法試験論文憲法の分析(1)」・「令和4年司法試験論文憲法の分析(2)」の続きである。

 

これまで、新しい出題形式である「新・主張反論型」と、「旧・主張反論型」・「リーガルオピニオン型」との異同などについて考察し、さらに、令和4年司法試験論文憲法の問題の元ネタ判例、司法試験考査委員(学者委員)の関心等との関係、そして作問の背景事情について分析を試みた。

 

 

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今回は、まず、設問1を具体的に検討し、その答案構成の大枠や、判例を積極的に活用した答案例を示すことにしよう。

 

 

答案構成の大枠だが、まず、決定①の憲法適合性(1)と決定②の憲法適合性(2)で大きく分け(いずれもYが行うであろう処分違憲の主張[1]について検討するものである)、前者では、23の点、21条1項の点及び14条1項[2]の点をそれぞれ検討し、23条の点については、請求権的(抽象的権利)構成(権利が具体化されているとして、憲法適合解釈[3]による判断枠組みを定立し、当てはめを行う)と、請求権的構成ではない構成(大学の中立義務[4]等を活用した構成)が考えられる。ちなみに、21条1項についても、(表現の自由の制限レベルで百選判例であるマクリーン事件[5]を活用し制限に当たらない旨の主張をすることはできる[6]が、仮に制限に当たると考えるとしても、)最終的には大学の中立義務等の問題で処理することになろう。なお、この23条や21条1項の中立義務の当てはめと14条1項の判断枠組みの当てはめについては、相当程度重なってくると考えられることから、14条1項について書く優先順位は低く、書くとしても分量は少なめでOKといえよう[7]

 

次に、後者(決定②の憲法適合性)では、23条の点につき、百選判例である東大ポポロ事件[8]を活用した自由権・防御権構成と、同構成によらない構成(23条により単位認定権が保障されず、その結果、上記の21条1項のところのような中立義務を活用した構成等)の双方を一応観念することができる。

 

とはいえ、このうち、自由権・防御権構成によらない方の判断枠組み(中立義務を活用した構成等が考えられる)と当てはめについては、少なくとも設問1では検討・記載不要というべきであろう。なぜなら、設問1で、自由権・防御権構成の方で合憲論を展開できれば、自由権・防御権構成によらない方も合憲といえることは(判断枠組みがより緩やかになるのであるから)もちろんのことだから(ゆえに論述は不要となるから)である[9]

 

 

以上まとめると、前者(決定①の憲法適合性)では、①23条・請求権的構成、②23条・中立義務構成、③21条1項・④14条1項の4本の主張(④を省けば3本の主張)について、後者(決定②の憲法適合性)では、⑤23条・防御権(自由権)構成、⑥23条・中立義務構の2本の主張、合計(5~)6本の主張(あるいは(5~)6つの事項)について、それぞれ手際よく、重複を極力避けつつ書いていく必要があるといえる。

 

 

なお、令和4年の問題で、私人間効力の問題を一応理論的には書けるようにも思える[10]

しかし、平成21年司法試験論文憲法の採点実感の「問題文や資料をきちんと読んで事実関係を把握することは,適切な論述をするための前提であるが,問題文の誤解,曲解などが目に付いた。例えば,①Y県立大学を国立大学と取り違えたり,県立大学の公権力性に気付かずY県立大学を私人ととらえ,私人間効力の問題を論じているもの(中略)などが少なからずあった。」(下線・太字強調引用者)とのコメントに照らすと、令和4年の答案でも私人間効力の問題は一切書かずに、純粋な対国家的権利が問題となる場合と同じように書いていくべきであると考えられる。

 

 

さて、答案構成の大枠・骨子は以上のとおりだが、具体的な答案例を示す前に、以下のとおり、2つのことを簡単に解説しておきたい。

 

1つは、前者(決定①の憲法適合性)の23条の点の請求権的(抽象的権利)構成について、もう1つは、後者(決定②の憲法適合性)の23条の点の自由権(防御権)構成についてである。

 

まず、前者(決定①の憲法適合性)の23条の点の請求権的(抽象的権利)構成の点について、大浜啓吉教授は、次のとおり述べる。すなわち、「近代においては,研究者は基本的に研究手段から切断されていますが,研究手段を与えられた場合においても,財政的裏づけなしには自由な「研究」を達成することができません。このことは,すべての学問分野に共通することですが,とりわけ自然科学系の分野では今日,巨額の資金を必要とするものが少なくなく,研究費の裏づけは死活問題です。そこで国家は憲法上,研究のための物的施設や研究費を支給することが義務づけられていると解されます。もっとも,この義務に対応して個々の研究者が国に対して具体的な権利を有するとまではいえず,あくまでも抽象的な権利を有するにとどまります 。(中略)従来,学問の自由の自由権的側面だけが強調されてきましたが,私見によれば,学問の自由には「国家による自由」という積極的側面があることが認識される必要があります。」[11]と解説する。

これは、学問の自由(憲法23条)の学問研究の自由につき、自由権(防御権)的側面のみならず、研究費を国家に請求する請求権的側面もある(具体的権利とまではいえないものの「抽象的権利」としての側面がある)との理解を示したものといえる。

 

このような理解と同様の立場から、決定①の憲法適合性の23条の点につき、請求権的(抽象的権利の)構成を検討することが可能となる。なお、この構成をも設問1の段階から書くことが「できるだけ丁寧な説明」という設問1の要求に適うことになるものといえよう。

 

次に、もう1つ、後者(決定②の憲法適合性)の23条の自由権(防御権)構成に関し、簡単に解説する。この構成に関しては、いくつかの判例・裁判例等が参考になる。

 

まず、前掲載東大ポポロ事件は、「教授その他の研究者は,その研究の結果を大学の講義または演習において教授する自由を保障されるのである。そして,以上の自由は,すべて公共の福祉による制限を免れるものではないが,大学における自由は,右のような大学の本質に基づいて,一般の場合よりもある程度で広く認められると解される。」(下線引用者)としており、学問の自由の一内容とされる「教授の自由」[12]の内容等について判示している。

 

ただし、東大ポポロ事件は、国家権力(警察権力)との関係での判示である[13]が、佐賀地判平成22年7月16LLI/DB L06550389は、研究者の学問の自由と大学の自治とが対立関係[14]にある場合に、上記内容の研究者の自由が、当該研究者が所属する大学に対しても主張しうるものである旨判示している[15]

 

そして、以上の2判例は、単位認定権については明言していないとみられるところ、この点に関し、阪高平成28年3月22日LEX/DB25546469は、「指導担当教員の成績評価は憲法上の権利である教授の自由それ自体ではなく、教授に伴って付随的に生じるものに過ぎないこと、仮に、指導担当教員の成績評価に伴う権利又は利益が認められるとしても、それが控訴人が主張するようなものではなく、当該教員の学生に対する指導状況、当該教員が所属する学部の有する秩序維持の権能を行使する必要性等の観点から合理的制約を受けるものである。」としており、(「仮に」と留保は付けているものの)単位認定権が憲法23条に基づき認められうる余地がある旨判示したものと読める。なお、単位認定に係る成績評価権が「教授の自由に付随する権利又は利益」ではあるが、「教授の自由に伴う不可欠の」権利又は利益であるとの見解(学説)[16]があり、この見解によると、単位認定権は憲法23条に基づき保障されるものと解されよう。

 

さて、それでは以下のとおり、令和4年司法試験論文憲法設問1の答案例を示そう。

 

第1 設問1

1 決定①について

 

(1)決定①は23条に違反しない

 

ア 助成金交付請求権は23条で保障されない

 Yの研究助成金の交付請求権は、「学問の自由」(憲法(以下法名略)23条)のうちの学問研究の自由として保障されるものではない。

 すなわち、研究者の学問研究の自由は、国家の干渉を受けることなく自由に学問研究を遂行する自由[17]であるから、政府や大学の介入を排除する自由権(防御権)である[18]。また、X大学には、学問の自由の一内容として、同自由を保障するための制度的保障としての大学の自治が認められており[19]、研究研究費を大学の所属する研究者にどのように配分・交付するかは予算管理における自治[20]に基づき自主的に判断しうる事項である。したがって、Yの研究助成金の交付請求権は、学問の自由(憲法23条)で保障されるものではない。

 

イ 助成金交付請求権利が保障されるとしても23条に違反しない

 仮に、研究助成金の交付請求権が、学問研究の自由として保障されるとしても[21]生存権(25条1項)と同様にその内容が抽象的で不明確であることから抽象的権利と解され、その権利を実現すべき大学の制度がある場合に限り具体的請求権となるというべきである[22]。もっとも、X大学はA研究所研究員の申請に基づく助成金交付制度を設けているから、Yの研究助成金100万円の交付請求権は具体化されている。

 そのため、Yは、X大学側に対し、23条の趣旨及び本件助成金制度の趣旨・目的に適合するように解釈運用するよう請求する権利[23]を有している。

 しかし、次のとおり、Xは、上記各趣旨・目的に適合する解釈運用を行っている。すなわち、これまでXに交付された助成金は、A研究所のサーバー上にあるウェブサイト「Y研究室」の運営等、Yの国内出張に充てられているところ、同サイトは、Yの政治的意見や、X県の産業政策を批判・反対する活動を展開する団体Cの活動のためにも利用され、さらに。助成金がC主催の学習会へのYの出張費に充てられている[24]。これらのことから、「地域経済の復興に資する研究活動を支援する」という助成金制度の趣旨・目的[25]に適合しない形で使用されており、実社会の政治的社会的活動東大ポポロ事件)に当たる活動に用いられているのであって、真理の発見・探究[26]という23条の趣旨にも適合しない使われ方といえる。そして、助成金の3分の2以上が上記のような使途となっているから、次年度も同様に上記各趣旨・目的に適さない支出がなされる蓋然性が高い。

 よって、Yの上記憲法適合解釈請求権[27]は認められず、決定①は23条に違反しない。

 

(2)決定①は21条1項にも違反しない

ア 表現の自由は制限されていない

 上記(1)イ①~③のYの活動が実社会の政治的社会的活動であり、あるいはそのような性質の活動を多分に含むとすると、次に、決定①がYの「表現の自由」(21条1項)を侵害しないかが問題となる。

 この点につき、Yの表現行為は、決定①により何ら直接制約されていない。また、Yの助成金申請に際して、本件助成金制度の趣旨・目的に適さない過去のYの政治的な表現行為が申請の許否に係る「消極的な事情としてしんしゃくされないことまでの保障」がされていると解することはできない(マクリーン事件)というべきである。

 よって、Yの表現の自由制限されておらず[28]、決定①はYの表現の自由を侵害せず、21条1項に違反しない。

 

イ 大学の中立義務等にも違反していない

 Yの表現の自由が直接制約されていないとしても、表現活動(21条1項)に対する給付措置すなわち国家助成につき、国家は、特定の意見を不合理に優遇したり、これに不利益を与えてはならないという中立義務を負うものと解されることから、決定①(・②)との関係ではYと対立関係にあるX大学としてもこのような中立義務を負い、これに違反すれば同項に違反するとされる余地があると解される[29]

 しかし、そうであるとしても、助成金の交付申請に対する許否の判断については、大学の自治予算管理における自治)に基づく合理的な裁量[30]認められるから、中立義務に違反するか否かは、その判断過程が不合理なものである結果社会通念上著しく妥当性を欠く措置といえるか否かで判断すべきである[31]

 Yの活動に対しては、学内の一部の教員に加え、Dなど一部の議員や、X大学経営審議会の地元経済会出身の委員から、大要、Yの活動に本件助成金が用いられていることが本件助成金の趣旨・目的との関係で「ふさわしくない」などの批判がなされており[32]、次年度もXに助成金を交付すれば、X県の市民らに対し、政治活動に助成金を使っても問題ないという誤ったメッセージが発せられたものと受け取られるおそれがあり、ひいては本件助成制度への市民・国民の理解を損なうおそれがあること[33]YはC主催の講演会等の行使を無報酬で行っており、次年度助成金を不交付とされても適正な講演料等が得られる蓋然性があることも考慮すると、損害は多くても年60万円程度、月に5万円程度にとどまるといえること、Yは優れた研究業績があるのであるから科研費等の申請が通る蓋然性が高いといえることからすれば、判断過程は合理的であり、社会通念上著しく妥当性を欠く措置とはいえない。

 よって、決定①は大学の中立義務に違反するものではなく、21条1項に違反しない。

 

(3)決定①は14条1項にも違反しない

 なお、A研究所ではこれまで研究員に研究助成が認められなかった例がないこと[34]から、決定①が平等原則(14条1項)に違反しないかという点も問題になる[35]

 しかし、平等原則に違反するか否か、すなわち、Yだけに助成金を不交付とする区別が合理的[36]なものいえるか否かは、前述したとおり合理的な裁量が認められることから、上記(2)イの判断過程審査により判断すべきである。

 よって、上記(2)と同様の理由から、決定①は平等原則(14条1項)に違反しないものといえる。

 

2 決定②について

(1)教員の単位認定権は23条で保障されない

 Yが「地域経済論」の単位付与に係る合否判定・成績評価を行う権利(以下、「単位認定権」という。)は、「学問の自由」(23条)のうちの大学教授教授の自由東大ポポロ事件)の保障にとって不可欠の権利とまではいえず、教授の自由に含まれるものではない[37]。また、学生の卒業資格の認定については、大学の自治の一内容としての教育研究作用を進めるうえでの自治[38]に係る事項というべきであるから、卒業認定と関連性のある単位認定は学長あるいは学部長の権限の及ぶ事項といえ、ゆえに、特にこのような場合の単位認定権は、同条により保障されるものと解すべきではない。

 よって、卒業認定と関連性のあるYの単位認定権は同条により保障されず、決定②は23条に違反しない。

 

(2)単位認定権が保障されているとしても、完全な自由は保障はされず、その制約は許される

 仮にYの単位認定権が23条によって保障されるとしても、決定②によるその制約は正当化されるというべきである。

 確かに、大学生は、児童・生徒(旭川学テ事件[39]の場合)とは異なり教授内容に対する批判能力を十分に備えてはいるが、上記(1)の大学の自治が妥当する卒業認定と関わる問題であることから、研究の成果を大学の講義や演習で教授する自由(東大ポポロ事件)とは異なり、単位認定権については、完全な自由(教授の自由)を認めることはできない[40]

 そこで、必要かつ相当と認められる範囲で(旭川学テ事件)で、大学が、授業担当教授の授業の単位を認定する権能(権限)を有するというべきである。

 本件では、Yはブックレットを批判する答案には「十分な理由」を示すことを要求した旨主張するが、ブックレットを批判しない答案には「十分な理由」が示されているのか不明であり、評価として均衡を失する点があるといえる。また、Yは講義中に「再三にわたり」政治的活動を行っている団体Cへの加入を勧め、「参加申込書」の配布まで行っているのであるから、学生の単位が認定されないかもしれないとの不安感やリスクに乗じて団体Cへの参加を事実上強制した面があり、かかる状況下で不当な勧誘に応じなかった学生の多くが不合格の評価を受けたことは、自主的に真理を探究し学修するという授業目的に反するものといえる。さらに、6割以上の学生が5段階評価で4以上の評価をした点も、回答者としては上記②のような不当な勧誘を受けており、上記不安感などから授業評価を不当に高く回答した可能性もある。これら①~③より、Yの単位認定につき専門的な裁量があることを考慮としても、Yの成績評価は、学術的観点からなされるべき大学の成績評価として著しく妥当性を欠き裁量権を逸脱したものであるから、X大学(F・B学部教授会)としては「必要」と認められる範囲で単位認定を行ったといえる。加えて、Y担当の「地域経済論」の不合格者に限り再試験での成績評価を行ったのであるから、「相当」と認められる範囲での権能行使でもある。

 よって、決定②によるYの権利の制約は23条に違反するものではない。

 

 

 

以上、令和4年司法試験論文憲法の設問1の分析を試み、拙い答案例を公表した。

 

いわゆる「目的―手段審査」[41]を一度も使っていない答案例であることから、違和感を感じる方もいることだろう。

筆者としては、決定②の判断枠組み(前記第1の2(2)の判断枠組み)については、目的手段審査で処理するのもOKではないかとも思う。とはいえ、結局、設問の「必要に応じて、参考とすべき判例に言及すること」(太字強調筆者)という指定に適うように、旭川学テ事件の活用を試みたことから、(少なくとも設問1の部分では)目的手段審査なしの答案例となっている。

 

 

次回は、設問2の答案例を公表する予定である。

 

 

 

(本ブログは、筆者が所属する機関や団体の見解を述べるものなどではなく、個人的な意見等を公表するものです。この点、ご注意ください。)

 

 

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[1] 平成21年司法試験論文憲法の問題では、「大学の『規則』自体の違憲性の問題と処分違憲が問題」(平成21年司法試験論文憲法出題趣旨、下線引用者)とされていた。しかし、令和4年では、大学の規則自体(などの内部ルール、他に就業規則等がある)の違憲性の(主張の)検討は問われておらず、「処分違憲」の主張の検討のみが要求されているものと考えられる。もっとも、決定①・決定②の憲法適合性と書けば当然に処分違憲を論じていることは少なくとも本問では明らかであろうから、あえて処分違憲という語を答案に明示する必要はないと思われる。なお、憲法学の「処分違憲」は、「処分」(行政事件訴訟法3条2項)とは重なるものの、イコールではないことを念のため付言する。

[2] 渋谷秀樹『憲法(第3版)』(有斐閣、2017年)(以下「渋谷・憲法」という。)438頁は、学問研究の自由が「政府諸機関等公共団体の補助に大きく依存する」という現実を指摘しつつ、この補助についてはいわゆる「政府言論」と同様の効果が生じる可能性があり、特定の研究を優遇することにより他の研究は重要ではないというメッセージが発信され、それが不当な差別的取扱いとなれば「平等原則違反の問題が生じる」(下線引用者)とする。また、渡辺康行=宍戸常寿=松本和彦=工藤達朗『憲法Ⅰ 基本権』(日本評論社、2016年)(以下「渡辺ほか・憲法Ⅰ」という。)234頁〔宍戸〕に照らしてみても、14条1項の主張を検討するという構成も(一応)ありうる構成だといえよう(ただし、同234~235頁〔宍戸〕は14条1項構成は安定性・明証性に欠けるものと批判しており、見解中立性の(憲法上の)要請の観点からアプローチすべき旨論じる。同アプローチは、要するに国家の中立義務(小山・後掲(3)203頁)によるアプローチのことではないかと考えられる。)。

[3] 木村草太『憲法の急所―憲法論を組み立てる 第2版』(羽鳥書店、2017年)(以下「木村・急所」という。)26頁参照。なお、「憲法適合解釈」というワードは明記しないものの、同趣旨の論述をすべき旨解説する文献として、小山剛『「憲法上の権利」の作法 第3版』(尚学社、2016年)(以下「小山・作法」という。)121頁、岡山大学法科大学院公法系講座編著『岡山大学版教科書 憲法 事例問題起案の基礎』(岡山大学出版会、2018年)35~36頁。

[4] 「国家の中立義務」に関し、小山・作法202~205頁参照。ただし、本問では政府の中立義務ではなく、X県公立大学法人(あるいは県立X大学(のA研究所所長E教授))の中立義務が問題となるが、政府による給付に係る措置(不給付)の場合と同様に考えればよいだろう。なお、別に、「違憲な条件」論、「ベースライン」論、「専門家の介在」論といった様々な憲法理論やそれらに基づく多少は違った答案構成が考えられるところではあるが(同203~204頁)、本ブログ(の本文)では、基本的には国家の中立義務の活用のみに言及することとしたい(この憲法理論自体が合否を分けることにはならないと考えられる。むしろその先の規範定立と当てはめで勝負が決まるだろう。)。

[5] 最大判昭和53年10月4日民集32巻7号1223頁、愛敬浩二「判批」長谷部恭男=石川健治=宍戸常寿『憲法判例百選Ⅰ[第7版]』(有斐閣、2019年)(以下「百選Ⅰ」という。)4~5頁(1事件)。なお、平成27年司法試験論文憲法でも、マクリーン事件の活用が求められていた(蟻川恒正「2015年司法試験公法系第1問」418号(2015年)99頁(110頁)等参照)のであり、また、平成25年司法試験論文憲法でも、東大ポポロ事件の活用が求められていた(山元一=中林暁生=山本龍彦「公法系科目論文式式試験の問題と解説 公法系科目〔第1問〕―鼎談篇」法学セミナー編集部『別冊法学セミナー 新司法試験の問題と解説2013』(別冊法学セミナー222号、2013年、日本評論社)15頁(19頁〔山元〕は「ポポロ判決」に言及する))のであるから、本年(令和4年)も過去問を(正しく)潰す勉強は、相当程度試験対策に有効であったといえるだろう。

[6] 小山・作法43頁参照。

[7] なお、松本哲治「当事者主張想定型の問題について」曽我部真裕=赤坂幸一=新井誠=尾形健編『憲法論点教室 第2版』(日本評論社、2020年)214~216頁は、主張できそうなものを全部主張すれば良いわけではなく、試験時間の制約等を考慮して、主に実務的に違憲となる可能性の高い問題を取り上げて論じれば良い旨説く。

[8] 最大判昭和38年5月22日刑集17巻4号370頁、中富公一「判批」百選Ⅰ186~187頁(86事件)。

[9] なお、ここでも14条1項違反を検討することもできるだろう(設問2では一応書く余地はあろう)が、23条につき自由権・防御権構成によらない構成(中立義務を活用した構成等)と当てはめが重なってくると考えられるので、14条1項に係る論述の優先順位は最も低く、これを書くとしても分量は少なめでOKだろう(ただし、筆者は、少なくとも、決定②との関係では、設問2においても14条1項論の論述は一切不要であると考えている)。

[10] 訴訟になった場合に損害賠償請求をするには、国家賠償法1条1項ではなく、民法709条に基づく請求も考えられるところであり、むしろ(特に決定①は)後者の構成が妥当ではないかと思われる。そして、不法行為民法709条)責任を追及するケースは、私人間効力の問題である(ただし、三菱樹脂事件のような問題設定や規範を採用することはしていない)旨解されているところである(渡辺ほか・憲法Ⅰ53頁〔宍戸〕参照)。

[11] 大浜啓吉「学問の自由とは何か」科学86巻10号(2016年)1049頁(1054頁、下線引用者)。https://www.iwanami.co.jp/kagaku/Kagaku_201610_Ohama.pdf

なお、中富公一編著『憲法のちから―身近な問題から憲法の役割を考える』(法律文化社、2021年)205頁〔中富公一〕は、「表現の自由は、自分の語る内容を誤りだとか望ましくないとか思っている人から、それを語っている間、支援や援助を受け続けるという権利ではないが、学問の自由は人々が何を書き、述べ、あるいは教えようと、大学等が彼らに支援や援助を与えるよう要求している」という法哲学者ドナルド・ドゥオーキン(1931-2013年)の説明を紹介する。これは学問の自由を大学人の「特権」としての説明するものであり、法的権利である抽象的権利とは性質を異にするものと解されることから(中林暁生「給付と人権」『岩波講座 憲法2 人権論の新展開』(岩波書店、2007年)263頁(265頁))、答案例では「特権」という語は避けている。

[12] 芦部信喜著・高橋和之補訂『憲法 第七版』(岩波書店、2019年)(以下「芦部・憲法」という。)173頁は、学問の自由の内容につき、「学問研究の自由、研究発表の自由、教授の自由の3つのものがある」とする。

[13] 中富公一「講座会議は教員の成績評価権を制約できるか」岡山大学法学会雑誌68巻1号(2018年)166頁(157頁)。https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/5/56211/20180914092349966587/olj_68_1_(001)_(042).pdf

[14] 平成21年司法試験論文憲法の採点実感は、「憲法第23条は一方で原告(個々の研究者)の研究の自由を保障するが,他方で研究者の所属する大学の自治をも保障する。大学の自治は通常,学問の自由を保障するための制度的保障であると理解されているが,本問では,両者は対立関係にあるため,これをどう調整するのかという問題を避けて通ることはできない。この点を十分検討している答案は,余り見られなかった。」(下線引用者)とする。なお、大学経営者vs教授会という対立構図を「大学の自治をめぐる今日的問題」して指摘・解説する文献として、新井誠=曽我部真裕=佐々木くみ=横大道聡『憲法Ⅱ 人権 第2版』(日本評論社、2021年)181頁〔横大道〕。

[15] 佐賀地判平成22年7月16LLI/DB L06550389は、「大学教員にとって,学生に教授することは,その学問研究の成果の発現の機会であるとともに,学生との対話等を通じて更に学問研究を深め,発展させるための重要かつ不可欠な場であるというべきである。そして,学生に対する研究指導は,大学教員の行う研究活動と密接に関連し,また,学生に対する教授内容の中核をなすものといえるものである。以上のことからすれば,大学教員にとって,学生の研究指導をすることは,単なる義務にとどまらず,権利でもあると解するのが相当である。」(下線引用者)とした上で、「原告は,農学研究科の准教授であるから(中略),大学院生を研究指導をする権利を有しているといえる。加えて,原告は,相談依頼者による申立てがされるまでは,学部生の卒論指導を行っていたこと(中略)からすれば,少なくとも学部生を研究指導(卒論指導)する法的利益を有していると解するのが相当である。」とする。

[16] 中富・前掲注(13)156頁。

[17] 渡辺ほか・憲法Ⅰ202頁〔松本〕参照。

[18] 渋谷・憲法438頁は、「研究の自由の基本は政府の介入を排除する権利であり、積極的に研究費の補助を請求する権利ではない」とし、松井茂記日本国憲法〈第3版〉』(有斐閣、2007年)496頁も、「学問の自由の保障は、高度の専門的知識としての学問・真理の探究としての学問への政治の非介入の原則を宣言したものと理解されている」する。

[19] 新井ほか・憲法Ⅱ176頁〔横大道〕、芦部・憲法176頁参照。

[20] 佐藤幸治日本国憲法論[第2版]』(成文堂、2020年)(以下「佐藤・憲法」という。)274頁。

[21] この「イ」の主張はXの反論内容を含むので、そのような内容は、設問2で書いても良いだろう。

[22] 芦部・憲法279頁、渡辺ほか・憲法Ⅰ368頁〔工藤〕参照。

[23] 木村・急所26頁等参照。

[24] 問題文第7段落を中心に事実を摘示した。

[25] 問題文第1段落4~5行目、同第7段落6行目からすると、助成ないし助成金制度の「趣旨」と「目的」を同じ意義で用いて良い(厳密には多少違うのかもしれないが)と考えられる。

[26] 芦部・憲法173頁は「学問の自由の中心は、真理の発見・探究を目的とする研究の自由である」とする。なお、設問1の答案には答案政策的に反映させてはいないが、同頁が「の中心は」と留保をつけていると読める(と考えられる)点には注意が必要だろう。この点につき、阪本昌成『憲法理論Ⅲ』(成文堂、1995年)179~180頁は、「従来の通説は、学問をもって、『真理』を探究する論理的知的な精神活動をいう、と理解してきた」が、「学問は『真理』探究に限られない、と考えるのが正しい」とし、「真理性と無関係な人間の欲求・情動や社会という秩序等に関する学問が成立する以上、『真理』を基礎として学問を定義することは、視野が狭すぎる」とする。加えて、同180頁は、「人の知的営為が、個別的・実戦的な活動の集積によって、次第に体系化されて『学問』へと展開されることを考えた場合、理論上はともかく、実際に『学問/信仰』、『学問/表現』を識別することは、困難」であり、「人の知は日常的な実践知と体系的な技術知からなると考える立場からすれば、完成された知識体系だけを学問と呼ぶことは避けなければならない」とする。阪本教授のこの解説は、令和4年司法試験論文憲法との関係でも重要な解説であると考えられ、特に設問2で活かせる(活かすべき)内容であるものといえよう。

[27] 木村・急所26頁。

[28] 小山・作法43頁参照。なお、ここでは、「萎縮効果」(同頁)の点にはあえて触れず、この点は設問2のYの反論段階から言及することにした。

[29] 小山・作法204頁参照。この点は、中立義務以外の構成でも(「違憲な条件」論、「ベースライン」論、「専門家の介在」論(同203~204頁)などでも)書き得るところではああろうが、本答案例では、国家の中立義務の活用のみに言及することにした。したがって、他の構成を排除すべきとの趣旨に出た答案の叙述ではないことに留意されたい。

[30] ここは「合理的な裁量」ではなく、「広い裁量」あるいは「広範な裁量」と書く方がより実務的であるし、妥当であるようにも思われる。しかし、ここでは、あえて設問2の反論や私見との(いわば)かみ合わせをよくするなどの見地から、「合理的な裁量」とした(合理的な裁量という語は、実務的に、広い・広範な裁量よりもやや裁量が狭い意味で使われることが多いように思われる)。

[31] この部分の判断枠組み(規範)は、東京高裁令和4年3月3日裁判所ウェブサイト・令和3年(行コ)第180号映画「宮本から君へ」助成金不交付事件・高裁判決)でも、助成金不交付処分につき、いわゆる判断過程審査(正確にはそれに近い判断枠組み)が採用されたことを参考にした(百選収載判例ではないことなどから、判例名は書いていない)。もっとも、同判決の判断枠組みは、実質的には1つの考慮事項(公益的事項なる事項)のみを重視することになってしまう、本来の判断過程審査とは異なる内容の独自の判断枠組みであるというべきである。このような判断枠組みが確定してしまうことは極めて不合理であることから、上告・上告受理申立てがなされている(本ブログ筆者は、上告人・上告受理申立人(原告・被控訴人)代理人の一人である)。

なお、この映画「宮本から君へ」助成金不交付事件の第一審の評釈(複数ある)については、前回のブログ(「令和4年司法試験論文憲法の分析(2)司法試験と政治」)の後掲注(8)を参照されたい。

[32] 問題文第6段落参照。あいちトリエンナーレ2019補助金不交付問題の契機となった事実関係(著名な政治家らによる「表現の不自由展・その後」に関する否定的な発言)を強く想起させる事実関係である。なお、この問題に関しては様々な文献があるが、憲法学者によるものとして、①蟻川恒正「国家と文化―『表現の不自由展・その後』をめぐって」岡本有佳=アライ=ヒロユキ編『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件(岩波書店、2019年)3頁(同文献7頁で蟻川教授自身が引用している、蟻川恒正「国家と文化」『岩波講座 現代の法1 現代国家と法』(岩波書店、1997年)191頁も参照されたい。)、②市川正人「『表現の自由』を改めて考える―表現の自由の保障の意味」法と民主主義543号(2019年)16頁、③志田陽子「『芸術の自由』をめぐる憲法問題―支援の中の「自由」とは」法と民主主義543号(2019年)20頁、④木村草太「あいちトリエンナーレ問題について」自治労通信796号(2019年)20頁、⑤駒村圭吾憲法問題としての芸術―表現の自由保障“生誕100年”に寄せて」法学セミナー786号(2020年)10頁、⑥横大道聡「表現の自由の現代的論点―〈表現の場〉の〈設定のルール〉について」法学セミナー786号(2020年)24頁、⑦中島徹憲法でみる「表現の不自由展・その後」―契約は憲法を超えるか」法学セミナー786号(2020年)34頁。また、「あいちトリエンナーレ2019」を知るための基本的な文献として、あいちトリエンナーレ実行委員会編・津田大介監修『あいちトリエンナーレ2019 情の時代 Taming Y/Our Passion』(生活の友社、2020年)。

[33] 映画「宮本から君へ」助成金不交付事件・高裁判決の「観客等に対し,『国は薬物犯罪に寛容である』,『違法薬物を使用した犯罪者であっても国は大目に見てくれる』という誤ったメッセージを控訴人が発したと受け取られ,薬物に対する許容的な態度が一般的に広まり,ひいては,控訴人が行う助成制度への国民の理解を損なうおそれがあるというべきである。」という判示を参考にした。この点の評価は分かれるというべきであり、本ブログ筆者は、この判示は、著しく不合理な法的評価を行ったものであると考えている。このことに関し、平裕介「映画『宮本から君へ』助成金不交付訴訟・東京高裁判決の問題点と表現の自由の『将来』のための闘い」(2022年)法学館憲法研究所ウェブサイト

http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber/20220404_02.html

なお、原告代理人の立場から同事件の第一審判決(請求認容判決)を解説した拙稿として、平裕介「文化芸術助成に係る行政裁量の統制と裁量基準着目型判断過程審査」法学セミナー804号(2022年)2頁。

[34] 問題文第7段落7行目。

[35] 渋谷・憲法438頁。

[36] 芦部・憲法132頁。「合理的」は、いわゆる「相対的平等」に係るキーワードである。

[37] 清野惇「現行法と大学の自治」寄川条路編著『大学の自治と学問の自由』(晃洋書房、2020年)33頁(40頁)参照。

[38] 佐藤・憲法274頁参照。

[39] 最大判昭和51年5月21日刑集30巻5号615頁、今野健一「判批」長谷部恭男=石川健治=宍戸常寿『憲法判例百選Ⅱ[第7版]』(有斐閣、2019年)296~297頁(136事件)。

[40] 旭川学テ事件の「完全な教授の自由を認めることは,とうてい許されない」という判示を意識している叙述である。

[41] 高橋和之立憲主義日本国憲法 第5版』(有斐閣、2020年)283頁。

令和4年司法試験論文憲法の分析(2) 司法試験と政治

 

「まず、政治・行政の過程において学問の成果が正当に活用されるようなしくみを整えなければならない。そのためには、『政府が自分に都合のよい人を審議会の委員として選ぶのは当たり前』という一部の〝常識〟を改める必要がある。」

(岡田正則「学術会議任命拒否問題の歴史的な意義」芦名定道=小沢隆一=宇野重規加藤陽子=岡田正則=松宮孝明『学問と政治 学術会議任命拒否問題とは何か』(岩波書店、2022年)1頁(27頁))

 

 

 

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前回のブログ「令和4年司法試験論文憲法の分析(1)」の続きである。

前回は、新しい出題形式である「新・主張反論型」と、「旧・主張反論型」・「リーガルオピニオン型」との異同などについて考察した。

 

yusuketaira.hatenablog.com

 

 

今回のブログでは、令和4年司法試験論文憲法の問題の元ネタ判例、司法試験考査委員(学者委員)の関心等との関係、そして作問の背景事情について分析を試みたい。

 

 

1 元ネタ判例

 

まず、令和4年司法試験論文憲法の問題の元ネタとなった判例は、富山大学事件最高裁判決[1]である。この判例憲法判例百選でセレクトされた判例である[2]

この判例以外にもいくつか関連する判例があるが、それは後で触れることとする。

 

さて、富山大学事件は、統治の分野の判例として有名であり、現に上記百選でも統治(裁判所)の判例の1つとして収載されているが、これを、人権の判例として捉え直し(もともとは人権の判例でもあったが、次第に統治の判例として有名になったものといえよう)、出題することとしたものと思われる。これならば、司法試験予備校等によって「的中」させられにくくなるからであろう。

 

とはいえ、なぜ元ネタ判例富山大学事件なのかといえば、理由は1つであろう。それは、令和3年重要判例解説でもセレクトされ、60年ぶりに全員一致での判例変更を行った岩沼市議会出席停止事[3]の影響と考えられる。

つまり、この令和2年11月の大法廷判決を機に、憲法の司法試験考査委員(学者委員のみならず実務家委員も)を含む多くの研究者・実務家が、射程が及びうるかもしれない判例群を検討したと考えられるところ、その判例群の中に、富山大学事件があったということである[4]

 

岩沼市議会出席停止事件の射程については様々な考え方があるところだが、富山大学事件との関係でいうと、岩沼市議会出席停止事件の射程が及ばないという考え方[5]と、及ぶ(及びうる)とする考え方[6]に一応大別しうる。

 

そして、特に射程が及ぶ・及びうるという考え方に立つと、大学と教職員、あるいは大学と学生との間の紛争も増えてくることが一応予想されることから[7]富山大学事件は、現在においても、実務的にも重要な判例の1つといえる。実務家の考査委員も元ネタ判例とすることに賛成するだろう。

 

以上のようなことから、特に決定②(「地域経済論」の不合格者の成績評価を取り消し、他の教員による再試験・成績評価を実施するとの決定)との関係での、あるいは事例全体との関係での元ネタ判例は、富山大学事件であるといえる。

 

そして、この判例に加えて、決定①(研究助成金の不交付決定)については、映画製作に係る助成金の不交付処分の違憲性・違法性が争われた憲法訴訟・行政訴訟(処分取消訴訟)であり、特に憲法判例として注目された、映画「宮本から君へ」助成金不交付事件(東京地判令和3年6月21日裁判所ウェブサイト、東京高判令和4年3月3日裁判所ウェブサイト、現在上告・上告受理申立て中)[8]が大いに参考になろう。

考査委員としても、この裁判例(令和3年度重要判例解説の「憲法判例の動き」でも「表現の自由」の裁判例として紹介されている)を強く意識したものと考えられる。

 

なお、この裁判例は、令和3年司法試験論文行政法でも、行政規則の効力論との関係で参考判例の1つとされた可能性が高い(現にそのような解説もある[9])。

 

 

2 司法試験考査委員の関心

 

次に、司法試験考査委員(学者委員)の関心等と令和4年司法試験論文憲法の問題の関係について考察を加えよう。

 

まず、市川正人教授だが、試験前に(おそらく作問の会議の前だろう)ジュリスト36号で前記岩沼市議会出席停止事件やその射程等について解説する玉稿を執筆しており[10]、また、教科書でも同事件の射程についての叙述がある[11]ことから、市川教授が問題の叩き台を作成した可能性はあろう。

 

次に、宍戸常寿教授は、司法権について(も)強い関心があるとみられる[12]ことから、宍戸教授が問題の叩き台を作成した可能性もあろう。

 

さらに、山元一教授は、大学の自治について(も)強い関心があるとみられる[13]ことから、山元教授が問題の叩き台を作成した可能性もあろう。

 

そして、只野雅人教授は、只野教授は後述する日本学術会議の会員任命拒否問題に強い関心があったとみられ[14]、この問題は大学の自治と深く関わる問題である[15]ことから、只野教授が問題の叩き台を作成した可能性もあろう。

 

以上、4名の先生方のどなたが叩き台を作っていてもおかしくないところではあるが、あえて一人だけ挙げるとすると、かつて、令和4年と同じく公立(県立)大学の研究者の学問の自由(憲法23条)と大学の自治とが「対立関係」[16]にある事案である平成21年新司法試験論文憲法の問題の解説を担当した宍戸常寿教授(当時は准教授)[17]の可能性が最も高いのではないかと思われる。

 

 

3 作問の背景事情

 

最後に、令和4年司法試験論文憲法の作問の背景事情について分析してみたい。

 

まずは、何といっても、「大学の自治」に深く関わる時事問題である日本学術会議会員任命拒否問題であろう。この問題については、様々な文献があり、多く報道されたため説明不要だろうが、先月(2022年4月)になって、任命拒否をされた6名の研究者ら自身が書いた新書(岩波新書[18]が出版されたため、未読の方はこの本を読むと良いだろう。

ちなみに、考査委員の一人である只野教授が「菅首相による学術会議会員の任命拒否に対する憲法研究者有志の声明」(https://kenponet103.com/gakujyutu-seimei)の賛同者であり、この問題に特に強い関心があったと思われることについては先に述べたとおりである。

 

また、決定①(研究助成金の不交付決定)については、あいちトリエンナーレ2019補助金不交付問題(企画展「表現の不自由展・その後」をめぐる問題)を想起するものだということができるだろう。この問題も多く報道され、多数の研究者が関連する解説記事等を書いている(なお、本ブログ筆者もいくつかの拙い解説を執筆した。このことについては、前回のブログの後掲注12・①~⑬の各文献を参照されたい。)。

 

以上の2つの時事問題の共通点は、行政決定の過程・プロセスが不透明であるという点である。

 

他方で、令和4年司法試験論文憲法の「設問1」では、次のような指定があったことを私たちは見逃してはならない。

すなわち、弁護士Zに依頼をしたX大学長Gは、対立当事者である研究者Yとの「再度の話合いに応じるつもりだが、大学としては憲法を踏まえてできるだけ丁寧な説明を行いたい、と相談した」(下線・太字強調引用者)という設問1の指定である。

 

依頼者側(大学側・学長)の意向としては、「憲法を踏まえてできるだけ丁寧な説明」を行いたい、というこの指定は、上記2つの時事問題の政府の態度とは真逆の態度(憲法に適うもの)であるといえよう。

 

政府の態度が「丁寧な説明」とはかけ離れた非立憲的な態度であった(特に学術会議問題では「総合的・俯瞰的」という不透明・不明瞭な応答に終始している)のに対し、考査委員が受験生に要求したことは立憲的な態度で「できるだけ丁寧な説明」をすること、ということであった。

 

たとえ対立する関係にある当事者に対しても、「憲法を踏まえてできるだけ丁寧な説明を行いたい」という考査委員による指定は、前回若干解説した「フルスケール」の答案を「設問1」から要求するために(一応)必要といえる記載ではあるが、そこには同時に、政府の上記非立憲的態度を鋭く批判する政治的な意図が見え隠れするように思われる。そして、法曹を志望する司法試験受験生に対し、憲法を守り説明責任を果たせるような「立憲的な」法曹になってほしいという願いが込められているのかもしれない。

 

令和4年司法試験論文憲法は、このように、今の「政治」と深く関わる出題であったと読むべきである。

 

 

 

以上、令和4年憲法の元ネタ判例、司法試験考査委員(学者委員)の関心等との関係、そして作問の背景事情について分析を試みた。

 

次回は、拙い答案例(設問1の答案例)を公表する予定である。

 

 

(本ブログは、筆者が所属する機関や団体の見解を述べるものなどではなく、個人的な意見等を公表するものです。この点、ご注意ください。)

 

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[1] 最三小判昭和52年3月15日民集31巻2号234頁。

[2] 見平典「判批」長谷部恭男=石川健治=宍戸常寿『憲法判例百選Ⅱ[第7版]』(有斐閣、2019年)396~397頁(182事件)。

[3] 最大判令和2年11月25日民集74巻8号2229頁。『令和3年度重要判例解説』(有斐閣、2022年)では憲法の2番の判例として収載されている(10~11頁、解説者は渡辺康行教授)。なお、論究ジュリスト36号(2021年春号)では、本判決の特集が組まれている(133~157頁)。

[4] 市川正人『基本講義 憲法 第2版』(新世社、2022年)304~305頁参照。なお、市川教授は、令和4年司法試験考査委員(憲法)である。

[5] 例えば、岩沼市議会出席停止事件の調査官解説は、射程が及ばないと考える立場と思われる(荒谷謙介「判解」法曹時報73巻10号2017頁(2051頁))。

[6] 岩沼市議会出席停止事件の宇賀克也補足意見は、裁量論によっても調整できないほどの団体の自律性を尊重しなければならないほどの「憲法上の根拠」がある場合にだけ訴えが却下されるという厳格な立場を採っているとみられる(木下昌彦編集代表・片桐直人=村山健太郎=横大道聡編『精読憲法判例―統治編』(弘文堂、2021年)325頁〔横大道聡=山本健人〕)。このような立場からすると、富山大学事件のようなケースにも射程が及びうるということになるようにも思われる。なお、令和4年司法試験考査委員(憲法)の市川正人教授は、富山大学事件を「部分社会」論によって説明されてきた判例であるとした上で、岩沼市議会出席停止事件の判例変更によって、今後は全面的な「部分社会」論の放棄に至るのではないかと期待される、と解説しており(市川・前掲注(4)304~305頁)、同事件の射程を広くみる立場と思われる(市川正人「『団体内紛争』と司法権」―最高裁大法廷判決を受けて」論究ジュリスト36号(2021年)134頁(142頁))も同様の解説をしている)。

[7] 村上友里「対面授業なし、『制約は当然』学費返還訴訟で大学側」朝日新聞デジタル2021年8月25日 https://www.asahi.com/articles/ASP8T5S3CP8TUTIL01F.html 参照。この新聞記事のケースのように、コロナ禍も相まって、大学と学生あるいは大学と教職員の紛争は増える可能性があるだろう。

[8] 第一審判決(東京地判令和3年6月21日裁判所ウェブサイト)の評釈として、①横大道聡「判批」新・判例Watch vol.29(2021年)31頁、②櫻井智章「判批」法教494号(2021年)135頁。また、③志田陽子「出演者不祥事による助成金不交付と表現の自由」宍戸常寿=曽我部真裕編著『憲法演習サブノート210問』(弘文堂、2021年)165頁(~166頁)、④曽我部真裕「表現の自由(6)―表現等への政府助成とパブリック・フォーラム論」法学教室494号(2021年)71頁(76~77頁)、及び⑤川岸令和「憲法判例の動き」『令和3年度重要判例解説』(有斐閣、2022年)2頁(5頁)も、憲法学の観点から、第一審判決について検討を加えている。さらに、⑥大島義則「公法系科目論文式試験〔第2問〕解説・解答例」別冊法学セミナー267号(2021年)126頁(129頁)は、行政法学の観点から第一審判決に言及する。さらに、原告代理人の立場から第一審判決を解説した拙稿として、⑦平裕介「文化芸術助成に係る行政裁量の統制と裁量基準着目型判断過程審査」法学セミナー804号(2022年)2頁。加えて、控訴審判決を批判する拙稿として、⑧平裕介「映画『宮本から君へ』助成金不交付訴訟・東京高裁判決の問題点と表現の自由の『将来』のための闘い」(2022年)法学館憲法研究所ウェブサイト(http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber/20220404_02.html)がある。なお、上記⑤の『令和3年度重要判例解説』において、映画「宮本から君へ」助成金不交付事件を個別に収載をしなかったことについては遺憾であるといわざるを得ない。司法試験で元ネタの1つとなった裁判例であって個別に収載され解説される価値は十分にあったように思われる。2023年に発行されるであろう『令和4年度重要判例解説』での個別セレクト(そのときは直接には高裁判例が収載・解説されることになろうが)に期待したい。

[9] 大島・前掲注(8)129頁。

[10] 市川・前掲注(6)「『団体内紛争』と司法権」―最高裁大法廷判決を受けて」134頁(142頁)。

[11] 市川・前掲注(4)304~305頁。

[12] 宍戸常寿「司法のプラグマティク」同『憲法裁判権の動態〔増補版〕』(弘文堂、2021年)356頁等参照。

[13] 山元一「大学の自治」小山剛=駒村圭吾編『論点探求 憲法〔第2版〕』(弘文堂、2013年)198頁参照。

[14] 只野教授は「菅首相による学術会議会員の任命拒否に対する憲法研究者有志の声明」(2020年10月20日9時段階で賛同者は142名)の賛同者の一人である。なお、時の政権の執政に対し、批判的な意見を公に示した研究者が、司法試験考査委員という公職に就いた(その任命を拒否されなかった)ということは、法律による行政の原理や立憲主義、法の支配の観点からとても望ましいことであると言わなければならない。

[15] 佐藤岩夫「日本学術会議会員任命拒否問題と『学問の自由』―日本学術会議法7条2項『推薦に基づく任命』規定の意義」法学セミナー792号(2021年)2頁(5~7頁)。

[16] 平成21年司法試験論文憲法採点実感は、「憲法第23条は一方で原告(個々の研究者)の研究の自由を保障するが,他方で研究者の所属する大学の自治をも保障する。大学の自治は通常,学問の自由を保障するための制度的保障であると理解されているが,本問では,両者は対立関係にあるため,これをどう調整するのかという問題を避けて通ることはできない。この点を十分検討している答案は,余り見られなかった。」(下線引用者)とする。

[17] 小山剛=宍戸常寿「公法系科目論文式試験の問題と解説 公法系科目〔第1問〕―対話篇」法学セミナー編集部『別冊法学セミナー 新司法試験の問題と解説2009』(別冊法学セミナー200号、2009年、日本評論社)20頁、宍戸常寿「公法系科目論文式試験の問題と解説 公法系科目〔第1問〕―解説篇」前掲・法学セミナー編集部『別冊法学セミナー 新司法試験の問題と解説2009』28頁(31~33頁には宍戸准教授(当時)が書いた「解答例」が掲載されており、必読文献である)。なお、山元教授も、平成25年司法試験論文憲法の解説に係る鼎談で、「ポポロ判決」に言及している(山元一=中林暁生=山本龍彦「公法系科目論文式式試験の問題と解説 公法系科目〔第1問〕―鼎談篇」法学セミナー編集部『別冊法学セミナー 新司法試験の問題と解説2013』(別冊法学セミナー222号、2013年、日本評論社)15頁(19頁〔山元〕))。

[18] 芦名定道=小沢隆一=宇野重規加藤陽子=岡田正則=松宮孝明『学問と政治 学術会議任命拒否問題とは何か』(岩波書店、2022年)。なお、佐藤・前掲注(15)2頁等も参考になる。

 

令和4年司法試験論文憲法の分析(1) “シン・主張反論型”(旧・主張反論型とリーガルオピニオン型との異同)の検討

 

「このブックレットでは、まずは化膿した傷口に目を凝らすようにして、冷徹に事実を見すえることにしたい。壊死した組織を再生し、国公立大学の公共性を鍛え直す試みもそこからしか始まらないからである。」

駒込武「はじめに」駒込武編『「私物化」される国公立大学』(岩波書店、2021年)2頁(7頁))

 

 

 

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1 出題形式の変更 ~「リーガルオピニオン型」から「新・主張反論型へ」~

 

令和4年司法試験論文憲法では、出題形式(出題方式)が変更された。

 

平成30年に出題形式が変更されたときほどの大幅な変更ではないが、平成29年までの出題形式に近いものの、違憲の主張ではなく合憲の主張から書かせるという新しい出題形式に戸惑っている法科大学院生・受験生もいることだろう。

 

そこで、平成18年~29年までの「主張反論型」[1]との違いについて検討し、さらに、若干ではあるが、平成30年~令和3年まで「リーガルオピニオン型」(法律意見書型)[2]との異同について検討してみたい。

 

なお、令和4年の新たな出題形式を、平成18年~29年までの「主張反論型」と区別する目的で、「新・主張反論型」といい、また、従来の「主張反論型」を「旧・主張反論型」ということがある。

 

 

2 「新・主張反論型」の「設問1」と「設問2」のポイント

 

(1)「設問1」のポイント

 

まず、新・主張反論型の出題形式、すなわち「設問」の部分を確認しよう。

 

(以下、問題文を引用)

 

〔設問1〕

X大学長Gは、X県公立大学法人の顧問弁護士Zに対して、Yとの再度の話合いに応じるつもりだが、大学としては憲法を踏まえてできるだけ丁寧な説明を行いたい、と相談した。あなたがZであるとして、X大学の立場から、決定①及び決定②それぞれについて、次回の面会においてどのような憲法上の主張が可能かを述べなさい。

 

〔設問2〕

〔設問1〕で述べられた憲法上の主張に対するYからの反論を想定しつつ、あなた自身の見解を述べなさい。

 

なお、〔設問1〕及び〔設問2〕とも、司法権の限界については、論じる必要がない。また必要に応じて、参考とすべき判例に言及すること。

 

(以上、引用終わり)

 

「設問1」で注目すべき点は、①一方当時者の(顧問)弁護士としての主張を行うものであること、②「憲法を踏まえてできるだけ丁寧な説明」を行うという依頼者のニーズに応える必要があること、③「必要に応じて、参考とすべき判例に言及する」こと、の3つである。

 

すなわち、「設問1」では、第1に、①当該一方当時者の「立場から」党派的な主張[3]、つまり、当該一方当時者に有利な主張をする必要がある。令和4年では、結論が合憲となる主張をするということである。

 

第2に、②「丁寧な」説明の中身として、「理論及び事実に関する効果的な主張」(平成20年司法試験論文憲法出題趣旨)を行う必要があると考えられる。また、「できるだけ丁寧な説明」という要求は、「フルスケール」(平成19年新司法試験論文憲法ヒアリング)での主張を意味するものといえよう。フルスケールとは、想定される反対当事者の主張に係る憲法上の主張に係る条文・問題点・論点(裁判ではそれが争点となる)を原則としてすべて設問1の段階で提示し、それらに対する判断枠組み・当てはめについて論じ、結論を示すというものである[4]

 

この「フルスケール」による論述について、具体的にどのように答案を書くべきか?は、後日、本ブログの続編で明らかにしたい。

 

とはいえ、1つだけその構成例を挙げておくと、決定①の23条違反の点について、「設問1」の合憲論として、(Ⅰ)助成金(研究費)交付請求権は23条で保障されないから合憲であるという構成と、(Ⅱ)仮に助成金交付請求権が23条で抽象的権利として保障され、具体化されているとしても、憲法適合的解釈として同条に違反する解釈運用(適用)とはいえないから合憲であるという主張を書く、ということである。

 

ただし、上記のとおり「原則として……すべて」と例外があるという留保をつけた点に関することだが、(Ⅰ)の場合に、さらに、(Ⅲ)公立大学の中立義務[5]違反(それによる23条違反)などが問題点・論点となりうるところ、この(Ⅲ)の問題点・論点まで設問1の部分でフルスケールで書ききってしまうと答案として重すぎることになり、時間切れ(や過剰な重複記述)のリスクが高まってしまうことになるかもしれない。そこで、例えばそのような場合には、(Ⅲ)の問題点・論点は軽く指摘をするにとどめるか、あるいはあえて触れないという答案戦略を採るということも一応(合格のためには)合理的といえるだろう。もっとも、筆者としては、(Ⅲ)もフルスケールで書き切るのが最も妥当であると考えている。

 

なお、上記(Ⅱ)の憲法適合的解釈は平成22年司法試験論文憲法でその活用が求められているところ、以下の過去のブログ(憲法適合的解釈を活用した答案例)も参考にしていただきたい。

 

yusuketaira.hatenablog.com

 

 

第3に、③必要に応じて、すなわち、問題点・論点によっては、参考とすべき判例に「言及」する、すなわち、有名な判例であればその判例名も示しつつ(出題趣旨や採点実感でも多くの具体的な判例名が挙がっている)その判断枠組みを活用したり、当てはめにおいて参考とすべき判例の当てはめを参考にしたりする必要がある。

 

ただし、判例を絶対視せよということではなく、「判例と異なる主張を行う場合には、判例の判断枠組みや事実認定・評価のどこに、どのような問題点があるのかを明らかにする」(平成20年司法試験論文憲法出題趣旨)ことによって、判例の立場とは別の立場を採ることは可能である[6]

 

なお、この「判例」(基本判例)の意味(要するにどの範囲の判例を潰せば良いのかなど)などについて、すでに過去のブログで考察したので参考にしていただきたい。

 

yusuketaira.hatenablog.com

 

 

(2)設問2のポイント

設問2は、旧・主張反論型の場合と同じと考えてよい[7]判例に適宜言及し活用することが必要になることは設問1と同じである。

 

なお、「反論」は「想定」するものではあるが、「設問2では、国の反論なのか私見なのか判別しにくいものが見られた」という採点実感(平成29年)からも分かるとおり、想定される「反論」を反論として書いていることを明記する必要があるという点はあらためて確認しておいてほしい。ちなみに、平成19年新司法試験論文憲法ヒアリングに照らすと、反論は「自分の見解を展開する前提として踏まえれば」よく、「コンパクトで,ポイントを絞った形で記載」(同ヒアリング)すべきである。

 

 

3 「新・主張反論型」の「旧・主張反論型」との違い

 

上記2の分析から、「新・主張反論型」の「旧・主張反論型」との違いは、次の1点だけといえる。

それは、合憲・違憲の主張・反論が真逆になる、ということであり、そのほかの点は旧・主張反論型と同じと評価すべきであろう。

 

すなわち、「旧・主張反論型」では、設問1で違憲の主張(フルスケール)をし、設問2でコンパクトな「反論」を適宜踏まえた私見を論じるのに対し、「新・主張反論型」では、設問1で合憲の主張(フルスケール)をし、設問2でコンパクトな「反論」を適宜踏まえた私見を論じることになる。

 

なお、以上のような考え方に対し、「新・主張反論型」は、合憲側なのであるから、手続的な違法(違憲)性が問われない程度に最低限の理由の提示(付記)[8]をすれば足りることや、理由の追加・差替えも相当程度認められている[9]ことからすれば、「旧・主張反論型」の設問1よりも、「新・主張反論型」の設問1の方が、コンパクトで良いのではないか、という別の考え方もありうるかもしれない。しかし、やはり、「できるだけ丁寧な説明」をするという依頼者(大学側)の要求の点を重視すると、「旧・主張反論型」の設問1と同じボリュームで、同じくフルスケールの答案を書く必要がある、ということになろう。

(ただし、この点については、後に公表される出題趣旨・採点実感を確認し、再現答案で検証すべきと思われる。)

 

 

4 「新・主張反論型」の「リーガルオピニオン型」との異同

 

最後に、令和3年までのリーガルオピニオン型との違いについて若干のコメントを加えよう。

その違いは、旧・主張反論型とリーガルオピニオン型の違いと同じと考えられる。

 

すなわち、第1に、主張反論型の「主張」と「反論」は党派的主張であって、リーガルオピニオン型の場合のような中立的な意見ではないが、主張反論型の「私見」は中立的な意見と同じに考えてよいだろう。

 

なお、この「中立」性の点については、以前、筆者なりに考察したので、(やや長いが)ご笑覧いただきたい。

 

yusuketaira.hatenablog.com

 

 

また、第2に、主張反論型では、第三者違憲主張適格(平成20年、21年[10])が論点となるが、リーガルオピニオン型ではこれが論点とならないものと考えられる。リーガルオピニオン型では、そもそも「当事者」「第三者」という概念が本来的に観念されず、「ステークホルダー」の権利利益を考慮して法律意見を述べることが求められているからである[11]

 

 

5 おわりに

 

以上、令和4年の「新・主張反論型」の分析を試みた。

 

次回は、令和4年司法試験論文憲法の問題作成過程の背景や、関連する、あるいは活用することになると考えられる判例について検討してみたい。

 

そして、その後、憲法(及び行政法)と「給付」(助成・補助)に関するケース・事例問題やその関連問題に強い関心を有する者[12]として、拙い答案例を公表する予定である。

 

 

(本ブログは、筆者が所属する機関や団体の見解を述べるものなどではなく、個人的な意見等を公表するものです。ご注意ください。)

 

 

*脚注番号のズレ(誤記)を訂正しました(2022.5.21)。

 

___________________

[1] 平成30年司法試験合格者「公法系1位が教える!憲法の新傾向と対策」受験新報819号(2019年)53頁は、平成18年から平成29年までの司法試験論文憲法の出題形式(「憲法上の主張」「反論を想定」「あなた自身の見解」という主張・反論・私見を論じさせる形式ないし方式の問題)を「いわゆる主張反論型」と称する。呼び易さを重視し、本ブログでも「主張反論型」と称する。なお、「主張・反論・私見型」(大島義則『憲法ガールⅡ』(法律文化社、2018年)178頁)、「当事者主張想定型」(松本哲治「当事者主張想定型の問題について」曽我部真裕=赤坂幸一=新井誠=尾形健編『憲法論点教室 第2版』(日本評論社、2020年)213頁)とも称される。

[2] 大島・前掲注(1)178頁。

[3] 大島・前掲注(1)179頁参照。

[4] 旧・主張反論型の問題である平成29年司法試験論文憲法採点実感も、「設問1に対する解答を僅か数行にしているものも見られたが,原告の主張としても,理論と事実に関する一定の主張を記載することが求められており,したがって,まず,設問1において,問題となる権利の特定と,その制約の合憲性に関する一定の論述をすることが期待されている。」としており、この指摘は、新・主張反論型にも妥当すると考えられる。

[5] 小山剛『「憲法上の権利」の作法 第3版』(尚学社、2016年)202~205頁参照。なお、別に、「違憲な条件」論、「ベースライン」論、「専門家の介在」論といった様々な憲法理論やそれらに基づく多少は違った答案構成が考えられるところではあるが(同203~204頁)、本ブログ(の本文)ではひとまず国家の中立義務の活用を試みることだけに言及している。

[6] 松本・前掲注(1)215頁参照。

[7] 平成29年司法試験論文憲法の「設問2」は、「〔設問1〕で述べられた甲の主張に対する国の反論を想定しつつ,憲法上の問題点について,あなた自身の見解を述べなさい。」となっており、令和4年の設問2と殆ど同一といえる。

[8] 最二小判昭和38年5月31日民集17巻4号617頁、最三小判昭和60年1月22日民集39巻1号1頁、最三小判平成23年6月7日民集65巻4号2081頁参照。

[9] 最三小判昭和53年9月19日判時911号99頁等参照。

[10] なお、平成23年司法試験論文憲法出題趣旨にも第三者違憲主張適格の判例に関する説明がある。

[11] 大島・前掲注(1)179頁参照。

[12] 憲法行政法と「給付」(助成・補助)に関するケース・事例問題として、あいちトリエンナーレ2019補助金不交付問題が挙げられる。この問題について行政法憲法の観点から論じた拙稿として、

①平裕介「『あいトリ』補助金不交付問題は県vs国の法廷闘争へ。今後の展開を行政法学者が解説」美術手帖ウェブ版(2019年) https://bijutsutecho.com/magazine/insight/20747

②平裕介「あいちトリエンナーレ2019補助金不交付の理由と補助金適正化法」美術の窓38巻11号(2019年)99頁、

③平裕介「行政法のフィルターで見るあいトリ補助金不交付問題―『行政裁量』のハードルと『天皇コラージュ事件』との共通項」美術の窓38巻12号(2019年)119頁、

④平裕介「あいちトリエンナーレ2019補助金不交付は、なぜ違法なのか(1)」美術の窓39巻1号(2020年)240頁、

⑤平裕介「あいちトリエンナーレ2019補助金不交付は、なぜ違法なのか(2)」美術の窓39巻2号(2020年)115頁、

⑥平裕介「あいちトリエンナーレ2019補助金不交付は、なぜ違法なのか(3)」美術の窓39巻4号(2020年)118頁、

⑦平裕介「あいちトリエンナーレ2019補助金不交付問題と今後の申請手続のポイント」美術の窓39巻5号(2020年)174頁、

⑧平裕介「文化芸術活動に対する『電凸』と補助金の関係―あいちトリエンナーレ2019から考える」美術の窓39巻6号(2020年)133頁、

⑨平裕介「あいちトリエンナーレ2019補助金問題の結末の法的検証」美術の窓39巻7号(2020年)130頁、

⑩平裕介「あいちトリエンナーレ2019と争訟手段―補助金不交付に対する行政争訟を中心に」法学セミナー794号(2020年)41頁。

なお、あいちトリエンナーレ2019における企画展の一つ「表現の不自由展・その後」の約2年後における同様の企画展の開催に関して争われた裁判例解説(拙稿)として、⑪平裕介「判批」(大阪高決令和3年7月15日LEX/DB文献番号25571687解説)法学セミナー)802号(2021年)124頁。

また、あいちトリエンナーレ実行委員会が「あいちトリエンナーレ2019」の負担金をめぐって名古屋市を提訴したケースに関する拙稿として、⑫平裕介「あいちトリエンナーレ実行委員会が名古屋市を提訴。弁護士・平裕介に今後の展開を聞く」美術手帖ウェブ版(2020年)https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/21965

加えて、「表現の不自由展・その後」を理由とする大村秀章愛知県知事のリコール運動に関する拙稿として、⑬平裕介「愛知県知事のリコール運動と『芸術の自由』を守るために私たちができること」美術手帖ウェブ版(2020年)https://bijutsutecho.com/magazine/insight/22092

また、同様に、憲法行政法と「給付」(助成・補助)に関するケースであり、映画製作に係る助成金の不交付処分の違憲性・違法性が争われた憲法訴訟・行政訴訟(処分取消訴訟)である映画「宮本から君へ」助成金不交付訴訟(東京地判令和3年6月21日裁判所ウェブサイト、東京高判令和4年3月3日裁判所ウェブサイト、現在上告・上告受理申立て中)につき、原告代理人の立場から第一審判決を解説した拙稿として、⑭平裕介「文化芸術助成に係る行政裁量の統制と裁量基準着目型判断過程審査」法学セミナー804号(2022年)2頁。

さらに、控訴審判決を批判する拙稿として、⑮平裕介「映画『宮本から君へ』助成金不交付訴訟・東京高裁判決の問題点と表現の自由の『将来』のための闘い」(2022年)法学館憲法研究所ウェブサイト

http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber/20220404_02.html

 

学習履歴や授業の出欠状況などの「個人の教育データ」を外部機関と「共有」する政府の提言は、生徒のプライバシー侵害(憲法13条違反)の疑いが濃い ―東京地判平成20年10月24日判例時報2032号76頁に照らした検討

「いまの世の中、『最大多数の最大幸福を実現するのはいいことだ。その結果、少数の人が不幸になってもしかたない』という考え方をしている人の方が多い。政治も、経済も、基本的には、多くの人が賛成することが正しいこと、という考え方をしている。

 逆に、だからこそ、法を使うときは、多数決とは違う考え方をするんだ。だって、法の世界まで多数決だったら、本当に一人ひとりの立場なんて意味なくなっちゃうから。」*1

 

 

 

*******

 

 

 

目を疑うレベルのニュースであった。

 

 

政府 学習履歴など個人の教育データ デジタル化して一元化へNHKニュース、2022年1月7日 15時51分)

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220107/k10013419481000.html

 

(以下引用)

 

政府は学習履歴など個人の教育データについて、2025年ごろまでにデジタル化して一元化する仕組みを構築することになりました。

 

これは牧島デジタル大臣が、閣議のあとの記者会見で発表しました。

 

それによりますと、2025年ごろまでに個人の学習履歴や授業の出欠状況など、教育データをデジタル化して一元化するとしています。

 

こうした教育データを学校や教育機関が共有し、教育の向上につなげたいとしています。

 

そして、2030年ごろまでに本人が閲覧できるようにし、生涯学習などに役立てられるということです。

 

牧島大臣は「子どもたちの個性を伸ばすことができるよう、教育の現場でデジタル化の環境を整備し、具体的な政策として進めていきたい」と述べました。

 

(引用終わり)

 

 

この記事によると、政府は、生徒「個人」の「学習履歴」や「授業の出欠状況」、その他にも教育に関連する情報(「など」とあるため)を「個人の教育データ」として当該生徒の通学する学校以外の機関すなわち当該学校以外の学校や教育機関」と「共有」する政策を推進したいようである。

 

しかし、前記「個人の教育データ」は、生徒の「評定」と同様に、いわゆる「プライバシー」に属する情報に当たるものと考えられる。

 

興味深い判断を示した裁判例があるので見てみよう。東京地判平成20年10月24日判例時報2032号76頁*2である。

 

(以下引用)

 

ア 中学校における生徒の評定は、中学校が生徒の各学年における各教科の学習の状況に関し、必修教科については各教科別に中学校学習指導要領に示す目標に照らして、選択教科についてはその教科の特性を考慮して設定された目標に照らして、それぞれその実現状況を総括的に評価したものである。

評定は、中学校が生徒に対して行う外部からの評価にすぎないとしても、その内容により、学習指導要領の実現状況、学習態度、技能等の当該生徒の外面のほか、学習意欲及び資質等の当該生徒の内面をも推知することができ、当該生徒固有の情報を推知し得る情報であるから、いわゆるプライバシーに属する情報に当たる。

したがって、生徒は、かかる評定をみだりに開示、収集、保有及び閲覧等(以下「開示等」という。)されない利益を、憲法一三条により保障されていると解される。

イ そして、評定は、生徒の外面のほか、その内面をも推知できるものであることからすれば、これをみだりに開示等されない利益は、生徒にとって重要な利益であり、その保護の必要性は大きいといえる

(中略)

ウ これらのことから、生徒の評定は、当該生徒に対する継続的な教育に使用する目的で付されるものであるといえ、生徒の教育に携わる者の間で共有される必要のある情報であるといえる。

したがって、評定が、当該生徒に対する継続的な教育の目的に基づき開示等される限り、当該生徒のプライバシーに対する制約は許容されるものといえる。

しかし、当該生徒に対する継続的な教育と関係のない開示等をこれと同列に扱うことはできない。

(中略)

エ 被告都及び被告区は、原簿の提出の目的が都立高校の入学者選抜の公平・公正な実施にあると主張するところ、都立高校の入学者選抜が公平・公正に実施されるべきであるのは当然である。

しかし、都立高校へ出願しない生徒について、その評定が氏名とともに原簿に記載されて提出されることは、当該生徒に対する継続的な教育とは無関係であり、上記公平・公正のために必要であるとしても、そのことから直ちに当該生徒の氏名及び評定の開示等が許容されることにはならない(なお、原簿提出の必要性が乏しいことは後述するとおりである。)。

したがって、被告都及び被告区が原簿の提出を求め、これを収集し、被告学校が原簿を提出することは、原告のプライバシーを侵害する違法な行為であるといえる。

 

(引用終わり、下線引用者)

 

 

この裁判例を参考に検討すると、前記「個人の教育データ」も、「評定」と同様に、学校が生徒に対して行う外部からの評価の内容により、学習指導要領の実現状況、学習態度、技能等の当該生徒の外面のほか学習意欲及び資質等の当該生徒の内面をも推知することができ当該生徒固有の情報を推知し得る情報にもなりうる余地があるものであるから、いわゆる「プライバシー」に属する情報に当たると考えられる(住基ネット事件判決*3のいう「個人の内面に関わるような秘匿性の高い情報」に当たるものといえるだろう。なお、前掲東京地判よりも前の判例である麹町中学内申書事件判決*4との関係も問題になるが、同判決の判示を理由に個人の評定や教育データが当該生徒の内心を推知し得ない情報に当たると解することはできないものと解する。)。

 

そして、上記情報の性質からすれば、「個人の教育データ」をみだりに開示等されない利益は、生徒にとって重要な利益であり、その保護の必要性は大きいものというべきである。

 

そうすると、例えば、少なくとも、高校や大学へ出願しない生徒につき*5、その「個人の教育データ」が外部の学校関係者や文部科学省の関係機関(これも「教育機関」に当たるとされる危険がある)、さらには外部の「教育機関」(民間企業等を含む語と思われる)と「共有」されることによって当該生徒の属する学校以外の外部者に当該「個人の教育データ」が開示される(そしてそれを前提に収集・保管される)ことは、当該生徒に対する「継続的な教育とは無関係」の開示等であり、政府が述べるように一定の公益目的に必要であるとしても、上記生徒のプライバシーの侵害とされ、憲法13条に違反することとなろう。

 

以上のことに対し、政府としては、「生涯学習」に有益な情報であるから、当該生徒に対する「継続的な教育」と無関係とはいえない、などと反論するかもしれない。

 

しかし、前掲東京地裁のいう「継続的な教育」とは、「生涯学習」といった長期的な教育について述べたものではないといえる。さらに、人は誰でも抽象的には「生涯学習」と関係がある生き物だからOKだという主張がまかり通ってしまうことになると、政府はすべての市民の「個人の教育データ」を殆ど取り放題になってしまい、極めて不合理である。

 

加えて、「個人の教育データ」は、内容によっては社会的差別に係るセンシティブ情報に当たる可能性も否定できないものであることから、「やむにやまれざる事由がない限り、収集、提供してはならない」*6ものというべきであるところ、そのような「やむにやまれざる事由」は本件の教育データ共有政策において存在しないものと考えられる。

 

なお、日本学術会議 心理学・教育学委員会・情報学委員会合同 教育データ利活用分科会の「教育のデジタル化を踏まえた学習データの利活用に関する提言―エビデンスに基づく教育に向けて―」(令和2年(2020年)9月30日付け)*7は、「行政機関などの法人外で学習データを利用する際は、不可逆な匿名化の技術を適用してデータを…適切に処理し…『個人を特定するような分析をしてはいけない』のようなデータ利活用時の禁止事項…の遵守」をすべきとしている(提言全文10頁)ことから、この日本学術会議の提言と、このたびの政府の「個人の教育データ」の利活用の提言とは“別モノ”だと言わなければならないだろう。

 

 

 

 

以上より、このたびの政府の提言する「個人の教育データ」の「共有」政策は、生徒のプライバシーを侵害し、憲法13条に違反する違憲な行為を含む政策である疑いが濃いものと考えられる。

 

 

 

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「多数決を使っていいときと、使っちゃいけないときとを、うまく見分けなきゃいけない。そして、みんな(=多くの人)のためだったとしても、こわしてはいけない、一人ひとりにとって大切なものがある。それを示しているのが、憲法で保障された『基本的人権』だ……『基本的人権は、多数決でも否定できない』ってことだ」*8

 

*1:西原博史『「なるほどパワー」の法律講座 うさぎのヤスヒコ、憲法と出会う サル山共和国が守るみんなの権利』(太郎次郎社エディタス、2014年)110頁。

*2:LEX/DB文献番号は25450501である。

*3:最一小判平成20年3月6日民集62巻3号665頁。

*4:最二小判昭和63年7月15日判例時報1287号65頁。

*5:このような生徒以外との関係の検討はここではしないが、高校や大学へ出願する生徒のプライバシーとの関係では問題がないという趣旨ではないので、「少なくとも」と書いている。

*6:米沢広一『教育行政法』(北樹出版、2011年)136頁。

*7:https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/kohyo-24-t299-1-abstract.html

*8:西原・前掲注(1)110~111頁。

東京五輪“学徒動員”は憲法・行政法・国際条約の趣旨に反しないか? ――児童酷使の禁止・児童福祉法・児童の権利に関する条約等との関係の検討

「『子どもの権利は大事ですか』と言われて否定する人はそうそういないが、現実には、子どものためを思う大人が、子どもを危険にさらしている。一つ一つの行動をとらえて、『これは危険です』と具体的に指摘していくしかないだろう。」[1]

 

 

 

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衝撃のニュースであった。

 

 

1 「感染」もとい「観戦」イベントに子どもを誘導する計画

 

小中学生ら81万人を「動員」、拒否で欠席扱いは本当?東京五輪の観戦計画、東京都教委に聞いた(ハフポスト日本版編集部、2021年4月30日)

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_608b5a98e4b05af50dc17c9e

 

 

この記事には、都教委は「校長が判断」とした上で、「子どもたちに不利益にならないような方向で対応してほしい」と呼びかけている、とある。

 

しかし、校長は都教委(や政府・東京五輪組織委)の意向を忖度し、広く子どもを動員するよう呼びかけるだろう。

 

そうすると、親も、子どもも、“みんな”が行くのだろうから、“友達”が行くのだから、自分も(自分の子どもも)参加しよう(参加させよう)という判断し、その結果、多くの子どもが「感染」イベントもとい「観戦」イベントに参加する(させる)ことになってしまうことは、(特に同調圧力の強い国家であればそれは)殆ど明白といえる。

 

以下、このような自治体の行政作用(実質的な政府や組織委と一体的な行為)につき、憲法記念日において、憲法行政法・条約上問題がないかごく簡単に検討してみることとする。

 

 

2 憲法との関係 ~憲法27条3項(児童酷使の禁止)~

 

ところで、日本国憲法第27条3項は、「児童は、これを酷使してはならない」と規定する。

 

憲法27条3項は、同条2項(賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める)の労働条件の中に当然含まれるものと解されるが、それでも3項に特に明示したのは、児童保護の重要性、児童酷使が猖獗を極めた歴史的経緯、そしてそのような経験が労働保護法制の展開を促す契機になったこと、等の理由に基づくものである[2]

 

上記観戦イベントへの子どもの参加は、憲法27条3項の趣旨に反しないだろうか。

 

形式的にみると労働そのものではないとはいえるのかもしれない。しかし、実質的には、政府が推奨する観戦イベントを「成功」させるための要員として重要な役割を演じることとなる役目を担う者であるから、少なくとも、同項おい予備同条2項の趣旨が妥当するというべきではないかと思われる。

 

そして、未来のある児童保護の重要性児童酷使が猖獗を極めた歴史的経緯に照らすと、移動中や観戦中に感染する危険の蓋然性がある、あるいはそのリスクがあるイベントに、小学生5~6年生や中学生などの生徒を参加させる(参加を促す)ことは、上記のことから、憲法上、問題であると言わなければならないだろう。

特に、感染力が非常に強いとされている(3密ではなくても1密・2密でも感染する危険性・リスクが指摘されている)新型コロナウイルスの「変異株」が増えている東京では(すでに全国的に増えているのかもしれないが)においては、上記危険ないしリスクは非常に大きいものといえよう。しかも、人が移動する数が「81万人」ということである。

 

ちなみに、同条2項・3項に関し、労働基準法(抜粋、下線引用者)は以下のように規定するところ、労働基準法の関係規定に照らしても、実質的には、危険な労働をさせることに近いことさせることとなるリスクがあるといえるのであるから、労働基準法あるいは同法の関係規定の趣旨との関係でも問題があるように感じる。

 

 

(最低年齢)

第56条 使用者は、児童が満15歳に達した日以後の最初の3月31日が終了するまで、これを使用してはならない。

2 前項の規定にかかわらず、別表第一第一号から第五号までに掲げる事業以外の事業に係る職業で、児童の健康及び福祉に有害でなく、かつ、その労働が軽易なものについては、行政官庁の許可を受けて、満13歳以上の児童をその者の修学時間外に使用することができる。映画の製作又は演劇の事業については、満13歳に満たない児童についても、同様とする。

 

(危険有害業務の就業制限)

第62条 使用者は、満18才に満たない者に、運転中の機械若しくは動力伝導装置の危険な部分の掃除、注油、検査若しくは修繕をさせ、運転中の機械若しくは動力伝導装置にベルト若しくはロープの取付け若しくは取りはずしをさせ、動力によるクレーンの運転をさせ、その他厚生労働省令で定める危険な業務に就かせ、又は厚生労働省令で定める重量物を取り扱う業務に就かせてはならない。

2 使用者は、満18才に満たない者を、毒劇薬、毒劇物その他有害な原料若しくは材料又は爆発性、発火性若しくは引火性の原料若しくは材料を取り扱う業務、著しくじんあい若しくは粉末を飛散し、若しくは有害ガス若しくは有害放射線を発散する場所又は高温若しくは高圧の場所における業務その他安全、衛生又は福祉に有害な場所における業務に就かせてはならない

3 前項に規定する業務の範囲は、厚生労働省令で定める。

 

(坑内労働の禁止)

第63条 使用者は、満18才に満たない者を坑内で労働させてはならない。

 

 

なお、国民・市民の生命や健康の権利(憲法13条参照)との関係につき、基本権保護義務を肯定する見解(有力説とみられる。)に立つのであれば、同義務との関係についても検討すべき問題となろう。

 

 

3 行政法との関係 ~児童福祉法

 

次に、行政法との関係である。

行政法という名称の法典名は日本ではないので、具体的な個別行政法を示すと、それは、児童福祉法である。

 

児童福祉法2条1項は「児童の年齢及び発達の程度に応じて」児童の「最善の利益が優先して考慮され、心身ともに健やかに育成されるよう努めなければならない」と規定する(後掲、他の関係しそうな規定を含め抜粋)。

 

前記のような感染の大きな危険・リスクや、自分自身が感染した場合(副作用もあると報道されていることは周知の事実である)や大切な家族・親族に感染させてしまった場合(特に高齢者は死亡する危険性が高い)のことを考えると、児童の「心身」を大きく害してしまうことにならないか。

 

例えば、自分の両親や祖父母が、観戦イベントに参加した子ども自身が感染したことによって、家庭内等でさらに感染し、死亡してしまったような場合、子どもの「心身」はどうなってしまうだろうか。

心身が「大きく害される」などという軽い言葉では表現することすら不可能であるくらいの事態が発生することになるのである。児童自身も身体的に健康を害することになる可能性がある上、心理的にも児童に甚大な悪影響を生じさせる状態にさせる可能性もある。

 

このような死亡事例が出たとき、自治体や政府、東京五輪組織委員会は、果たしてその責任がとれるのだろうか。言うまでもなく、とれるわけがないのである。もっとも、因果関係がない、などと述べる周到な用意だけは準備万端なのであろうが(政府や自治体には、コロナに対応する万全な準備を先手先手でしていただきたいところだが…)

 

以上のように、児童を五輪観戦イベントに参加するよう動員をかけることは、児童の「最善の利益」(同項)になるわけがないものように思われてならない。

 

 

第一章 総則

第1条 全て児童は、児童の権利に関する条約の精神にのつとり、適切に養育されること、その生活を保障されること、愛され、保護されること、その心身の健やかな成長及び発達並びにその自立が図られることその他の福祉を等しく保障される権利を有する。

 

第2条 全て国民は、児童が良好な環境において生まれ、かつ、社会のあらゆる分野において、児童の年齢及び発達の程度に応じて、その意見が尊重され、その最善の利益が優先して考慮され、心身ともに健やかに育成されるよう努めなければならない。

2 児童の保護者は、児童を心身ともに健やかに育成することについて第一義的責任を負う。

3 国及び地方公共団体は、児童の保護者とともに、児童を心身ともに健やかに育成する責任を負う。

 

第3条 前二条に規定するところは、児童の福祉を保障するための原理であり、この原理は、すべて児童に関する法令の施行にあたつて、常に尊重されなければならない。

 

第一節 国及び地方公共団体の責務

第3条の2 国及び地方公共団体は、児童が家庭において心身ともに健やかに養育されるよう、児童の保護者を支援しなければならない。ただし、児童及びその保護者の心身の状況、これらの者の置かれている環境その他の状況を勘案し、児童を家庭において養育することが困難であり又は適当でない場合にあつては児童が家庭における養育環境と同様の養育環境において継続的に養育されるよう、児童を家庭及び当該養育環境において養育することが適当でない場合にあつては児童ができる限り良好な家庭的環境において養育されるよう、必要な措置を講じなければならない。

 

第3条の3 市町村(特別区を含む。以下同じ。)は、児童が心身ともに健やかに育成されるよう、基礎的な地方公共団体として、第十条第一項各号に掲げる業務の実施、障害児通所給付費の支給、第24条第1項の規定による保育の実施その他この法律に基づく児童の身近な場所における児童の福祉に関する支援に係る業務を適切に行わなければならない。

2 都道府県は、市町村の行うこの法律に基づく児童の福祉に関する業務が適正かつ円滑に行われるよう、市町村に対する必要な助言及び適切な援助を行うとともに、児童が心身ともに健やかに育成されるよう、専門的な知識及び技術並びに各市町村の区域を超えた広域的な対応が必要な業務として、第11条第1項各号に掲げる業務の実施、小児慢性特定疾病医療費の支給、障害児入所給付費の支給、第27条第1項第3号の規定による委託又は入所の措置その他この法律に基づく児童の福祉に関する業務を適切に行わなければならない。

3 国は、市町村及び都道府県の行うこの法律に基づく児童の福祉に関する業務が適正かつ円滑に行われるよう、児童が適切に養育される体制の確保に関する施策、市町村及び都道府県に対する助言及び情報の提供その他の必要な各般の措置を講じなければならない。

 

第二節 定義

第4条 この法律で、児童とは、満18歳に満たない者をいい、児童を左のように分ける。

一 乳児満1歳に満たない者

二 幼児満1歳から、小学校就学の始期に達するまでの者

三 少年小学校就学の始期から、満18歳に達するまでの者

 

2 この法律で、障害児とは、身体に障害のある児童、知的障害のある児童、精神に障害のある児童(発達障害者支援法(平成十六年法律第百六十七号)第二条第二項に規定する発達障害児を含む。)又は治療方法が確立していない疾病その他の特殊の疾病であつて障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律(平成十七年法律第百二十三号)第四条第一項の政令で定めるものによる障害の程度が同項の厚生労働大臣が定める程度である児童をいう。

 

 

 

4 国際条約との関係 ~児童の権利に関する条約

 

さらに、児童の権利に関する条約(日本は1994年批准、後掲・抜粋)との関係でも問題があるだろう。

 

同条約24条は、締結国は(日本も)「到達可能な最高水準の健康を享受すること」についての「児童の権利を認める」としており(同条1)、この権利の「完全な実現を追求する」ものとし、特に「予防的な保護」に関するサービスを発展させることなどのための「適当な措置」をとる、とされている(同条2(f))。

 

自治体や政府は、上記のような措置をとるべき(あるいはその趣旨に沿う行政活動をすべき)と解されることから、同条約との関係でも、変異種感染イベントもとい五輪観戦イベントへの動員(同イベントへの誘導)をすることは許されないというべきであろう。

 

移動・観戦の場に児童を近づけないことこそが「予防的」な措置というべきであり、「到達可能な最高水準の健康を享受すること」についての児童の権利の「完全な実現を追求する」行政作用というほかないだろう。

 

 

 

第24条 締約国は、到達可能な最高水準の健康を享受すること並びに病気の治療及び健康の回復のための便宜を与えられることについての児童の権利を認める。締約国は、いかなる児童もこのような保健サービスを利用する権利が奪われないことを確保するために努力する。

2 締約国は、1の権利の完全な実現を追求するものとし、特に、次のことのための適当な措置をとる。

(a) 幼児及び児童の死亡率を低下させること。

(b) 基礎的な保健の発展に重点を置いて必要な医療及び保健をすべての児童に提供することを確保すること。

(c) 環境汚染の危険を考慮に入れて、基礎的な保健の枠組みの範囲内で行われることを含めて、特に容易に利用可能な技術の適用により並びに十分に栄養のある食物及び清潔な飲料水の供給を通じて、疾病及び栄養不良と闘うこと。

(d) 母親のための産前産後の適当な保健を確保すること。

(e) 社会のすべての構成員特に父母及び児童が、児童の健康及び栄養、母乳による育児の利点、衛生(環境衛生を含む。)並びに事故の防止についての基礎的な知識に関して、情報を提供され、教育を受ける機会を有し及びその知識の使用について支援されることを確保すること。

(f) 予防的な保健、父母のための指導並びに家族計画に関する教育及びサービスを発展させること。

 

 

  

5 子どもの「最善の利益」のための議論を

 

本ブログは、各項目についての詳細な検討は行っていないが、コロナ禍における憲法記念日において「児童」が「酷使」されそうになっているのではないかという危惧感から、東京五輪“学徒動員”のニュース憲法行政法・条約すなわち憲法27条3項(児童酷使の禁止の規定)、児童福祉法児童の権利に関する条約の関係規定との関係について、問題提起を行ったものである。

 

本ブログで挙げた規定以外にも関係する規定があるかもしれないが、いずれにせよ、<自治体や政府が「子どもに手を出す」政策・計画を着々と遂行しようとしていることが憲法行政法・国際条約との関係で大きな問題があるのではないか?>という論点の検討、国民的・市民的議論が、今、児童・子どもの「最善の利益」のために必要であるように感じているのである。

 

 

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「子どものため」と言いながら、大人にとっての「管理の都合」ばかりが優先されているのではないか、と感じてしまう場面が多々あるのです。[3]

 

 

 

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[1] 木村草太「子どもの権利を考える——現場の声と法制度をつなぐために」木村草太編『子どもの人権をまもるために』(晶文社、2018年)336頁。

[2] 長谷部恭男編『注釈日本国憲法(3)』(有斐閣、令和2年)59頁〔駒村圭吾〕。

[3] 木村草太「はじめに」木村・前掲注(1)『子どもの人権をまもるために』5頁。

 

 

 

*このブログでの(他のブログについても同じです)表現は,あくまで私個人の意見,感想等を私的に述べるものであり,私の所属団体,関連団体のそれとは一切関係のないものです。