平 裕介(弁護士・公法研究者)のブログ

主に司法試験と予備試験の論文式試験(憲法・行政法)に関する感想を書いています。

令和4年司法試験論文憲法の分析(4) 設問2の答案例

 

「国家からの自由と国家による自由という対抗図式でもって、いろいろな問題を見ていく場合に、簡単にどちらかの立場を100%採用して、それで割り切って事柄を解決することはおそらくできないでしょうし、またすべきでもないでしょう。実際には、いろいろな要因を考慮しながら、バランシングを考慮して、裁判官ならば結論を出すということになるでしょうが、しかし、問題を考える際には、いったん国家からの自由を突きつめるといったいどういうことになり、どういう問題が残るか。それから国家による自由の見方を突きつめるといったいどういう状況が想定され、またそこにはどういう問題点が残るのかというようなことを、押しつめて考えつつ議論をするということが必要なのではないでしょうか。」

樋口陽一『もういちど憲法を読む』(岩波書店、1992年)91~92頁)

 

 

 

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「令和4年司法試験論文憲法の分析(1)」~「令和4年司法試験論文憲法の分析(3)」の続きである。

 

 

これまで、新しい出題形式である「新・主張反論型」と、「旧・主張反論型」・「リーガルオピニオン型」との異同などについて考察し(「令和4年司法試験論文憲法の分析(1)」)、さらに、令和4年司法試験論文憲法の問題の元ネタ判例、司法試験考査委員(学者委員)の関心等との関係、そして作問の背景事情について分析を試みたのち「令和4年司法試験論文憲法の分析(2)」、答案構成の大枠等について検討し、設問1の答案例を示した(「令和4年司法試験論文憲法の分析(3)」)。

 

 

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今回は、以下のとおり、設問2の答案例を示す。

 

 

第2 設問2

 

1 決定①について

 

(1)23条について

 

ア 助成金交付請求権は保障されるか

 助成金交付請求権が23条で保障されるかという問題につき、Yからは、同請求権は抽象的権利であり、本件ではこれが具体化されているという反論が想定される。

 この点につき、近現代では科学技術の発展により多額の研究費が必要となっていることから、国家助成・補助という財政的な裏づけなしに研究者が自由な学問研究を達成することは非常に困難な状況にある[1]。また、学問研究の自由・研究発表の自由は、憲法19条・21条でも保障されうるところ、さらに23条によって「学問の自由」が保障されている趣旨は、学問研究に高い程度の自由が要求される点にあるものと解される[2]

 そこで、学問の自由には自由権的側面のほか請求権的側面もあるというべきであり、研究者が属する公立大学に対する助成金交付請求権も、学問研究の自由として保障されうると解すべきであるが、その内容が抽象的で不明確であることから抽象的権利といえ、その権利を実現すべき制度がある場合に限り具体的な請求権となると解すべきである[3]。そして、X大学はA研究所研究員の申請に基づく助成金交付制度を設けているから、Yの研究助成金100万円の交付請求権は具体化されており、Yには具体的な請求権がある。

 なお、いったん交付請求権を具体化した以上、大学の自治予算管理における自治[4])を理由にYの請求権を否定することは、研究者の学問研究の自由を十分に保障するという大学の自治の目的[5]にかえって反することになるので、できないというべきである。

 

イ 決定①は23条に違反するか

 上記アより、Yは、X大学側に対し、23条の趣旨及び本件助成金制度の趣旨・目的に適合するように解釈運用するよう請求する権利[6]を有しているといえる[7]。では、Xは、上記各趣旨・目的に適合する解釈運用を行っているか。

 この点につき、Yからは、A研究所のサーバー上にあるサイト「Y研究室」の運営等や、C主催の学習会への参加を含むYの国内出張に助成金が使われてはいるが、同サイトにはYの学術的な見解を載せているのあり、団体Cの目的も地域の環境保護にあるため政治的な団体ではないのであるから、助成金制度の趣旨・目的に反する使われ方はしていない、地域の環境保護はA研究所の目的や助成の趣旨に適合する、といった反論が想定される。

 これらのうち、については、YのX県の自然環境をいかした農業や観光業に力を入れるという観点から学術論文等は国内外の学会で高い評価を得ている[8]のであるから、上記サイトに載せている情報はYの政治的意見ではなく学術的な見解であって、研究活動に関するものといえる。次に、については、X大学側の前記(設問1の箇所で述べた)主張のとおり団体Cの活動に政治的な側面があることは否定できないが、他方でCの目的は地域での環境保護を進めることにあり[9]、これはYの研究テーマと重なることに照らすと、Cの活動や環境保護の見地からのX県の政策への批判は、実社会の政治的社会的活動東大ポポロ事件)だというべきではなく、日常的な実践知をYの研究体系に取り入れること[10]に資する真理の発見・探究のための研究活動の一環というべきである。さらに、につき、YはSDGsの理念と深く関わる自然環境に配慮した持続可能な地域経済[11]に関して研究しているところ、Yの研究は、現在のX県の企業を誘致する産業政策[12]に反する面があるとしても、少なくとも中長期的にみれば「地域経済の復興に資する研究活動」であるといえるから、A研究所の目的や助成の趣旨に適合する研究であるといえる。

 よって、助成金制度の趣旨・目的や、真理の探究という23条の趣旨に適合する助成金の使われ方だといえ、次年度も同様に上記各趣旨・目的に適する支出がなされる蓋然性が高いことから、Yの上記憲法適合解釈請求権[13]は認められる。ゆえに、決定①は、23条に違反する。

 

(2)21条1項について

 

ア 表現の自由の制限の点について

 仮に、Yの活動が研究活動(上記(1)イ②)とはいえず、実社会の政治的社会的活動であり、あるいはそのような性質の活動を多分に含むものであると捉えるとしても[14]、決定①は、Yの「表現の自由」(21条1項)を侵害しないか。

 この点につき、Yからは、Yの表現行為が消極的事情として斟酌され、助成金が不交付とされると、萎縮効果が生じることから、決定①はYの表現の自由を制約するというべきであるとの反論が想定される。

 確かに、助成金の不交付決定は、Yの表現行為を直接禁止するものではない。しかし、外国人の在留に関わる外交政策等に係る裁量判断の場合よりも、研究所の研究員としての地位・資格を有する大学研究者への助成金交付に係る専門的な裁量判断の方が、裁量の幅が狭いといえるから、助成金交付・不交付との関係でマクリーン事件の射程は及ばないというべきである[15]。また、直接の制約ではないものの、表現行為を行ったことを理由に助成金が不交付とされると、YのみならずA研究所の研究員である研究者らの表現の自由にも強い萎縮効果をもたらす[16]ことになる。

 したがって、助成金を不交付とする決定①は、間接的ではあるが、表現の自由に対する制限に当たるというべきである[17]

 

イ 大学の中立義務にも違反するか

 Yの表現の自由が上記のとおり間接的に制約されていることから、21条1項違反の判断枠組みにつき、Yからは、規制目的の重要性及び手段が目的との実質的関連性を要求する中間審査基準により違憲審査がされるべきという反論が想定される。

 しかし、表現活動に対する給付措置・国家助成の場合と同じく公的資源を用いるものである以上、研究活動への助成も研究内容による選別が本来的にありうるものとされることから、助成金交付に係る専門的判断について合理的な裁量が認められるといえ、かつ、助成金交付はX大学の大学の自治予算管理における自治)とも関わる事項といえる。そのため、上記中間審査基準のような比較的厳格な基準によるべきではない。

 もっとも、前記第1の1(2)イのとおり、公立大学も、国家と同じく、研究者の特定の意見を不合理に優遇したり、これに不利益を与えてはならないという中立義務を負うものと解されることから、決定①(・②)との関係ではYと対立関係にあるX大学としてもこのような中立義務を負い、これに違反すれば同項に違反するというべきである[18][19]

 そして、上記中立義務違反の判断については、上記合理的な裁量を一定程度尊重しつつも、その判断過程が不合理なものである結果社会通念上著しく妥当性を欠く措置といえるか否かで判断すべきである[20]

 この点につき、Yからは、Dなど一部の議員による批判があったことを重視すべきではない、C主催の講演会等の講師は無報酬の方が引き受けやすい、科研費等の存在を考慮・重視すべきではない、次年度の研究活動への重大な支障が生じる、Yの優れた業績や、これまでは研究員全員に交付されてきた点を重視すべきである、との反論が想定される。

 まず、については、Dなど一部の議員による政治的圧力ともいえる批判があったこと自体は助成の趣旨との関係で重視すべきものではなく、かつ、政治活動に助成金を使っても問題ないという誤ったメッセージをX大学が発したものと受け取られる具体的なおそれないしその相当の蓋然性があるとはいえず、不交付を基礎づける事情とはいえない。また、C主催の講演会等の講師は無報酬の方が引き受けやすく、講師の活動はYの表現の自由や学問の自由と関連性のある活動でもあるから、無報酬で講師を引き受けている点も不交付を基礎づける事情ではない。さらに、科研費等は別の助成制度であり助成の具体的な目的は異なるといえるから、その存在も不交付とするために考慮すべきものではない。他方で、数十万円であっても現実に次年度の研究活動への重大な支障が生じること[21]、及び、優れた研究業績がある点やこれまでは研究員には全員に助成金が交付されてきたこと[22]は、助成金が交付されるための積極事情として重視すべきものである。すなわち、④は、助成の必要性が高度であることを基礎づけるものだから、積極事情として重視すべきである。さらに⑤も、優れた業績の研究者に予算を配分するという助成の趣旨に沿う事情であるし、すでにA研究所の研究員は一定の優れた業績があるものと認められた研究者であるといえるから、研究員であること自体も積極事情であるといえる。

 よって、X大学側の判断過程には他事考慮考慮不尽に係る事情がみられ、判断過程が不合理なものである結果、決定①は、社会通念上著しく妥当性を欠くものというべきである。ゆえに、中立義務違反があるといえ、決定①は、21条1項に違反する。

 

(3)14条1項について

 

 A研究所ではこれまで研究員に研究助成が認められなかった前例がないこと[23]から、決定①が平等原則(14条1項)に違反しないかも問題になる[24]

 もっとも、本件の不交付という別異取扱いが合理的[25]な区別といえるか否かは、前記のとおり合理的な裁量が認められることから、上記(2)イと同じ判断枠組みによるべきである。

 よって、上記(2)と同様に、決定①は、平等原則(14条1項)にも違反する。[26]

 

 

2 決定②について

 

(1)教員の単位認定権は23条で保障されるか

 

 Yが「地域経済論」の単位付与に係る合否判定・成績評価を行う権利(単位認定権)[27]は、「学問の自由」(23条)のうちの大学教授教授の自由東大ポポロ事件)に含まれ、同条により保障されるか。Yからは、教授の自由の保障にとって不可欠の権利といえるから保障されるべきという反論が想定される。

 この点に関し、大学の学生は、自己の目標に応じてシラバスや授業ガイダンス等に基づき、教員の教え方等を考慮して特定の教師を選び、指導を受け、単位の認定を受けるべく研鑽するのであるから、仮にその指導教員とは別の教員が成績評価を行うとすれば、期待された教育指導上の効果を上げ得ないことになりうる。そのため、学生の教育を受け学ぶ権利(26条1項)の実質的な保障という観点からも、単位認定権は、教授の自由の保障にとって不可欠の権利というべきである。

 よって、単位認定権は、23条によって保障される[28]

 

(2)単位認定権の制約は許されるか

 

 次に、上記のYの単位認定権は、決定②によって制約されるところ、その制約は23条に違反しないか。

 この点につき、Yからは、23条で保障される重要な権利が直接的に制約されているから厳格審査基準(目的が必要不可欠、手段が必要最小限度)や上記中間審査基準により審査されるべきとの反論が想定される。

 しかし、学生の卒業資格の認定については、大学の自治の一内容としての教育研究作用を進めるうえでの自治[29]に係る事項というべきであるから、卒業認定と関連性のある単位認定権は当該教員の属する大学の自治との関係で一定の制限に服するものといえる。また、X大学側にも大学の自治に基づく学生の教育に関する一定の裁量が認められるといえる。ゆえに、23条違反か否かを厳格審査基準や中間審査基準により審査すべきではない。

 他方で、大学生は、児童・生徒(旭川学テ事件[30]の場合)とは異なり教授内容に対する批判能力を十分に備えていること、大学生側の大学・教員を選択する幅は広いこと、大学においては全国的に教育の機会均等を図る強い要請があるわけでもないことからすれば、旭川学テ事件と本件は事案が異なり、大学による単位認定の権能(権限)の範囲や上記学生教育に係る裁量の幅は狭いものというべきである。

 そこで、旭川学テ事件の「必要かつ相当」という判断枠組みよりは厳格な審査を行うべきであるから、(ⅰ)授業担当教員自身の単位認定を認めることより、学生に対する公正な成績評価[31]について支障が生ずる相当の蓋然性が認められ、(ⅱ)その支障の発生を防止するために必要かつ合理的な範囲に限り[32]大学による再試験実施等による成績評価・単位認定をなしうるものというべきであり、これらを満たさない場合には23条に違反するものと解する。

 この点につき、Yからは、ブックレットはYが共著者として執筆しているなど指定教科書[33]としても適当であること、団体Cへの加入への勧誘はあくまで学問的見地から行ったものであること、学生評価にも問題はないことなどから上記相当の蓋然性はなく、かつ、不合格者全員を対象に再試験を行っていることから上記合理的な範囲を超えているとの反論が想定される。

 このうち、については、ブックレットの共著者らが授業でゲストとして講演等を行っており、ブックレットが「貴重な学術的示唆」を含むと評価されている[34]ことから、ブックレットを批判する答案を書いた学生の多くが低い成績となった理由は学術的観点からの批判が十分に加えられていなかったからだというべきであり、ブックレットを批判しない者の成績評価との均衡を失するものではないというべきである。また、Yは講義中にCへの加入を勧めたが、団体Cの本来的な目的は前記のとおり地域の環境保護というYの研究テーマと重なる学術的側面のある団体であり、Cの構成員も上記のとおり学術的価値の高いブックレットの共著者に含まれていることにも照らすと、学術的関心の高い学生がCに加入・参加して高い成績となった傾向があるにすぎないし、加えて、C未加入の学生を一律に不合格評価としたわけでもないので事実上加入を強制したとは認められない。さらに、学生アンケートはそもそも成績評価と関連付けられるべき趣旨のものではないが、そのようなアンケートで6割以上の学生が4以上の評価をしているのであるから、授業内容や方法が著しく妥当性を欠くものであったとはいえず、授業内容・方法と密接に関連する出題やその成績評価が著しく妥当性を欠くとも認められない。したがって、上記(ⅰ)相当の蓋然性はあるとはいえない。

 また、「地域経済論」の不合格者の中には単に不真面目な学生も含まれている可能性があるから、不合格者全員を対象に再試験を行う必要性は必ずしも高くなく、かつ、異議申立てを行った学生だけを再試験可とし、個別に審査することが公正な成績評価という観点からは合理的といえるから、(ⅱ)必要かつ合理的な範囲を超えているともいえる。

 よって、決定②は、23条に違反する。

                                                                             以上

 

 

 

以上、令和4年司法試験論文憲法の設問2の拙い答案例を公表した。

 

できれば注(後掲注)の説明も含めご笑覧いただき、読者の皆様にとって何か1つでも参考になることがあれば幸いである。

 

 

 

(本ブログは、筆者が所属する機関や団体の見解を述べるものなどではなく、個人的な意見等を公表するものです。この点、ご注意ください。)

 

 

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[1] 栗城壽夫=戸波江二編『現代青林講義憲法〔補訂版〕』(青林書院、1998年)202頁〔戸波江二〕、大浜啓吉「学問の自由とは何か」科学86巻10号(2016年)1049頁(1054頁)参照。https://www.iwanami.co.jp/kagaku/Kagaku_201610_Ohama.pdf

[2] 辻村みよ子憲法〔第7版〕』(日本評論社、2021年)230頁。

[3] 芦部・憲法279頁、渡辺ほか・憲法Ⅰ368頁〔工藤〕参照。

[4] 佐藤幸治日本国憲法論[第2版]』(成文堂、2020年)(以下「佐藤・憲法」という。)274頁。

[5] 芦部信喜著・高橋和之補訂『憲法 第七版』(岩波書店、2019年)176頁参照。

[6] 木村草太『憲法の急所―憲法論を組み立てる 第2版』(羽鳥書店、2017年)(以下「木村・急所」という。)26頁参照。

[7] この部分までは、設問1と重なる論述が多いが、抽象的権利説で押し切るという答案政策を採ったことから以上、このような論述もやむを得ないというほかなかろう。なお、抽象的権利説ではなく、請求権構成を否定し、自由権(防御権)構成によるべき、という答案構成(設問2ではそう書く)も考えられるところではある。しかし、本答案では、判断枠組みを設問1と一緒にするという一種の政策的な判断を行っている。その方が主張反論私見が噛み合う(そのように見えやすい)と考えられるからである。

[8] 問題文第2段落参照。

[9] 問題文第3段落参照。

[10] 阪本昌成『憲法理論Ⅲ』(成文堂、1995年)180頁は、「人の知的営為が、個別的・実戦的な活動の集積によって、次第に体系化されて『学問』へと展開されることを考えた場合、理論上はともかく、実際に『学問/信仰』、『学問/表現』を識別することは、困難」であり、「人の知は日常的な実践知と体系的な技術知からなると考える立場からすれば、完成された知識体系だけを学問と呼ぶことは避けなければならない」(下線引用者)とする。

[11] 問題文第2段落2行目。

[12] 問題文第1段落参照。

[13] 木村・急所26頁。

[14] ここはこのように書かないと、21条1項の論点が一切出てこなくなってしまうことになりかねないので、仮定的な表現を用いている。

[15] 曽我部真裕「判批」(最大判昭和53年10月4日民集32巻7号1223頁(マクリーン事件)解説)憲法判例研究会編『判例ラクティス憲法〔増補版〕』(信山社、2014年)6~7頁(7頁)は、「新規入国の場合とその他の場合(在留期間更新の場合など)、あるいは、定住外国人(特に特別永住者)とそれ以外とでは裁量の幅が異なると考えることもできよう。」(下線引用者)とする。

[16] 小山・作法43頁参照。なお、設問1では、「萎縮効果」(同頁)の点には、重複を避ける目的からあえて触れず、設問2のYの反論の段階から言及することにした。また、平成27年司法試験論文憲法出題趣旨が次のとおり述べていることに照らし、YだけではなくY以外の者(ここではA研究所の研究員)にも萎縮効果が生じることに言及している。

〈同出題趣旨〉「本年のもう一つの問題は,表現の自由である。すなわちBは, 自分の意見・評価を甲市シンポジウムで『述べたこと』が正式採用されなかった理由の一つとされたことを問題視しているので,そこでは,内面的精神活動の自由である思想の自由の問題よりも,外面的精神活動の自由である表現の自由の問題として論じることが期待される。その際には,意見・評価を述べること自体が直接制約されているものではないことを踏まえつつ,『意見・評価を甲市シンポジウムで述べたこと』が正式採用されなかった理由の一つであることについて,どのような意味で表現の自由の問題となるのかを論じる必要がある。そのような観点からは,上述のような理由により正式採用されないことはBのみならず,一般に当該問題について意見等を述べることを萎縮させかねないこと(表現の自由に対する萎縮効果)をも踏まえた検討が必要となる。その上で,この点に関しては,正式採用の直前においてもBが反対意見を述べていることなどから惹起される『業務に支障を来すおそれ』の有無についての検討も必要となる。その検討に当たっては,外面的精神活動の自由である表現の自由の制約に関する判断枠組みをどのように構成するかが問われることとなる」(下線・太字強調引用者)

[17] 小山・作法43頁参照。

[18] 小山・作法204頁参照。この点は、中立義務以外の構成でも(「違憲な条件」論、「ベースライン」論、「専門家の介在」論(同203~204頁)などでも)書き得るところではああろうが、本答案例では、国家の中立義務の活用のみに言及することにした。したがって、他の構成を排除すべきとの趣旨に出た答案の叙述ではないことに留意されたい。

[19] この段落は、設問1と殆ど重複するが、やむを得ないだろう。

[20] この部分の判断枠組み(規範)は、主張・反論・私見が噛み合うように(そのように見えやすいように)するなどの目的で、あえて設問1と同じものとした。この判断枠組みに関しては、東京高裁令和4年3月3日裁判所ウェブサイト・令和3年(行コ)第180号映画「宮本から君へ」助成金不交付事件・高裁判決)でも、助成金不交付処分につき、いわゆる判断過程審査(正確にはそれに近い判断枠組み)が採用されたことを(一応)参考にしている(百選収載判例ではないことなどから、判例名は書いていない)。もっとも、同判決の判断枠組みは、実質的には1つの考慮事項(公益的事項なる事項)のみを重視することになってしまう、本来の判断過程審査とは異なる内容の独自の判断枠組みであるというべきである。このような判断枠組みが確定してしまうことは極めて不合理であることから、上告・上告受理申立てがなされている(本ブログ筆者は、上告人・上告受理申立人(原告・被控訴人)代理人の一人である)。

なお、この映画「宮本から君へ」助成金不交付事件の第一審の評釈(複数ある)については、前々回のブログ「令和4年司法試験論文憲法の分析(2)司法試験と政治」の後掲注(8)を参照されたい。

[21] 問題文第7段落5行目。

[22] 問題文第7段落6~8行目参照。

[23] 問題文第7段落7行目。

[24] 渋谷秀樹『憲法(第3版)』(有斐閣、2017年)438頁。

[25] 芦部・憲法132頁。「合理的」は、いわゆる「相対的平等」に係るキーワードである。

[26] この(3)の部分も設問1とかなり重複するが、やむを得ないだろう。

[27] 「単位認定権」の定義付けは、設問1の答案ですでに行っているので、ここでは本来は「単位認定権」とだけ書けば足りるが、読者への便宜上、再度「単位認定権」の内容を書いている。

[28] 大阪高平成28年3月22日LEX/DB25546469は、「指導担当教員の成績評価は憲法上の権利である教授の自由それ自体ではなく、教授に伴って付随的に生じるものに過ぎないこと、仮に、指導担当教員の成績評価に伴う権利又は利益が認められるとしても、それが控訴人が主張するようなものではなく、当該教員の学生に対する指導状況、当該教員が所属する学部の有する秩序維持の権能を行使する必要性等の観点から合理的制約を受けるものである。」(下線引用者)としており、「仮に」と留保は付けているものの、単位認定権が憲法23条に基づき認められうる余地がある旨判示したものと一応読める。もっとも、「付随的に生じるものに過ぎない」という判示や「仮に」と留保し積極的に「権利又は利益」であると判示していないことからすれば、この裁判例が、単位認定権は(教授の自由とは異なり)23条により保障されないと述べたものと理解することも十分可能だろう。このようなことから23条の権利の保障レベルで切ってしまい、あとは21条1項のところのように、大学の中立義務の問題にしてしまうという構成もありうるところではある。とはいえ、本答案では、あえてこのような構成を採らなかった。なぜならば、23条で保障されない権利だということにしてしまうと、23条違反か否かの判断枠組みの定立に際して旭川学テ判決を活用しにくくなってしまい、同事件を活用して判断枠組みを定立した設問1との整合性やバランス感を図れなくなってしまうからである。

[29] 佐藤・憲法274頁参照。

[30] 最大判昭和51年5月21日刑集30巻5号615頁、今野健一「判批」長谷部恭男=石川健治=宍戸常寿『憲法判例百選Ⅱ[第7版]』(有斐閣、2019年)296~297頁(136事件)。

[31] 問題文第8段落4行目「成績評価が著しく不公正」参照。

[32] よど号ハイジャック記事抹消事件(最大判昭和58年6月22日民集37巻5号793頁、稲葉実香「判批」長谷部恭男=石川健治=宍戸常寿『憲法判例百選Ⅰ[第7版]』(有斐閣、2019年)32~33頁(16事件))の①障害の生ずる程度についての「相当の蓋然性」基準と、②制限の範囲についての「必要かつ合理的」という規範を参考にした。

 この判断枠組みに関しては、本問のような(「法令違憲」が問われていないと考えられる)処分違憲の点だけを検討させる問題であっても(なお、平成21年司法試験論文憲法の問題では、「大学の『規則』自体の違憲性の問題と処分違憲が問題」(平成21年司法試験論文憲法出題趣旨)とされていた。)、一般的には法令違憲の審査に用いられるとされる目的・手段審査の枠組みを「応用」して、処分違憲の点(処分審査)でも(つまり令和4年の問題のような場合にも)目的・手段審査の枠組みで答案を書くことができないか?という問題がある。これは1つの大きな論点だといえよう。この点につき、判例実務は、中間審査基準などの目的・手段審査の枠組みを処分違憲の点に応用することには消極的であるといえる(駒村圭吾憲法訴訟の現代的転回――憲法的論証を求めて』(日本評論社、2013年)30頁も「処分審査においては、上記の諸判例を概観しても、目的手段の思考様式を用いて審査を行っている例は見当たらない。判例では少なくとも主流論証になっていないような印象を受ける。」とし、同35頁も「目的手段審査は、主に、法令審査における審査手法である。」とする。)。また、憲法学説は、大別すれば、【A説】処分違憲の点では目的・手段審査によるべきではないという立場(同書30頁以下参照)と、【B説】一定の場合には目的・手段審査を応用すべきという立場(高橋和之『体系 憲法訴訟』(岩波書店、2017年)279~280頁等)に分かれているといえるが、今日では【A説】の方が多数ではないかという印象を(筆者の印象ではあるが)受ける。そして、“司法試験業界”では、少なくとも旧司法試験時代は【B説】が主流であったように思われるが、今日の(少なくとも令和以降)司法試験では、(【B説】が絶対NGということはないだろうが、)できるだけ【A説】で論じるべきであろう。その理由は、(ⅰ)【A説】の方が実務的であり、「判例」への言及を求める司法試験も実務との整合性を要求しているとみられることに加え、(ⅱ)【B説】による場合にはそれなりにきっちりと適切な理由付け(高橋・前掲『体系 憲法訴訟』283~283等参照)を書く必要がある、というハードルを課されるものと考えられるからである。

[33] 問題文第5段落2行目。

[34] 問題文第4段落6~7行目。