平 裕介(弁護士・公法研究者)のブログ

主に司法試験と予備試験の論文式試験(憲法・行政法)に関する感想を書いています。

令和4年司法試験論文憲法の分析(3) 設問1の答案例

 

「国家が費用や会場について支援することで作家の自由度を広げようというとき、同時に、こうした場面で国家がどう振る舞うべきかが新たな問題となってくる。ここでは、国家の支援を受けるからには国家の意向に従うべきだとする考え方ではなく、国家の『公』としての役割と中立性を確保し、支援を受ける芸術家が支援を前提としてもなお保障されるべき『自由』があることを確認することが必要となっている。」

(志田陽子『「表現の自由」の明日へ――一人ひとりのために、共存社会のために』(大月書店、2018年)189~190頁)

 

 

 

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「令和4年司法試験論文憲法の分析(1)」・「令和4年司法試験論文憲法の分析(2)」の続きである。

 

これまで、新しい出題形式である「新・主張反論型」と、「旧・主張反論型」・「リーガルオピニオン型」との異同などについて考察し、さらに、令和4年司法試験論文憲法の問題の元ネタ判例、司法試験考査委員(学者委員)の関心等との関係、そして作問の背景事情について分析を試みた。

 

 

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今回は、まず、設問1を具体的に検討し、その答案構成の大枠や、判例を積極的に活用した答案例を示すことにしよう。

 

 

答案構成の大枠だが、まず、決定①の憲法適合性(1)と決定②の憲法適合性(2)で大きく分け(いずれもYが行うであろう処分違憲の主張[1]について検討するものである)、前者では、23の点、21条1項の点及び14条1項[2]の点をそれぞれ検討し、23条の点については、請求権的(抽象的権利)構成(権利が具体化されているとして、憲法適合解釈[3]による判断枠組みを定立し、当てはめを行う)と、請求権的構成ではない構成(大学の中立義務[4]等を活用した構成)が考えられる。ちなみに、21条1項についても、(表現の自由の制限レベルで百選判例であるマクリーン事件[5]を活用し制限に当たらない旨の主張をすることはできる[6]が、仮に制限に当たると考えるとしても、)最終的には大学の中立義務等の問題で処理することになろう。なお、この23条や21条1項の中立義務の当てはめと14条1項の判断枠組みの当てはめについては、相当程度重なってくると考えられることから、14条1項について書く優先順位は低く、書くとしても分量は少なめでOKといえよう[7]

 

次に、後者(決定②の憲法適合性)では、23条の点につき、百選判例である東大ポポロ事件[8]を活用した自由権・防御権構成と、同構成によらない構成(23条により単位認定権が保障されず、その結果、上記の21条1項のところのような中立義務を活用した構成等)の双方を一応観念することができる。

 

とはいえ、このうち、自由権・防御権構成によらない方の判断枠組み(中立義務を活用した構成等が考えられる)と当てはめについては、少なくとも設問1では検討・記載不要というべきであろう。なぜなら、設問1で、自由権・防御権構成の方で合憲論を展開できれば、自由権・防御権構成によらない方も合憲といえることは(判断枠組みがより緩やかになるのであるから)もちろんのことだから(ゆえに論述は不要となるから)である[9]

 

 

以上まとめると、前者(決定①の憲法適合性)では、①23条・請求権的構成、②23条・中立義務構成、③21条1項・④14条1項の4本の主張(④を省けば3本の主張)について、後者(決定②の憲法適合性)では、⑤23条・防御権(自由権)構成、⑥23条・中立義務構の2本の主張、合計(5~)6本の主張(あるいは(5~)6つの事項)について、それぞれ手際よく、重複を極力避けつつ書いていく必要があるといえる。

 

 

なお、令和4年の問題で、私人間効力の問題を一応理論的には書けるようにも思える[10]

しかし、平成21年司法試験論文憲法の採点実感の「問題文や資料をきちんと読んで事実関係を把握することは,適切な論述をするための前提であるが,問題文の誤解,曲解などが目に付いた。例えば,①Y県立大学を国立大学と取り違えたり,県立大学の公権力性に気付かずY県立大学を私人ととらえ,私人間効力の問題を論じているもの(中略)などが少なからずあった。」(下線・太字強調引用者)とのコメントに照らすと、令和4年の答案でも私人間効力の問題は一切書かずに、純粋な対国家的権利が問題となる場合と同じように書いていくべきであると考えられる。

 

 

さて、答案構成の大枠・骨子は以上のとおりだが、具体的な答案例を示す前に、以下のとおり、2つのことを簡単に解説しておきたい。

 

1つは、前者(決定①の憲法適合性)の23条の点の請求権的(抽象的権利)構成について、もう1つは、後者(決定②の憲法適合性)の23条の点の自由権(防御権)構成についてである。

 

まず、前者(決定①の憲法適合性)の23条の点の請求権的(抽象的権利)構成の点について、大浜啓吉教授は、次のとおり述べる。すなわち、「近代においては,研究者は基本的に研究手段から切断されていますが,研究手段を与えられた場合においても,財政的裏づけなしには自由な「研究」を達成することができません。このことは,すべての学問分野に共通することですが,とりわけ自然科学系の分野では今日,巨額の資金を必要とするものが少なくなく,研究費の裏づけは死活問題です。そこで国家は憲法上,研究のための物的施設や研究費を支給することが義務づけられていると解されます。もっとも,この義務に対応して個々の研究者が国に対して具体的な権利を有するとまではいえず,あくまでも抽象的な権利を有するにとどまります 。(中略)従来,学問の自由の自由権的側面だけが強調されてきましたが,私見によれば,学問の自由には「国家による自由」という積極的側面があることが認識される必要があります。」[11]と解説する。

これは、学問の自由(憲法23条)の学問研究の自由につき、自由権(防御権)的側面のみならず、研究費を国家に請求する請求権的側面もある(具体的権利とまではいえないものの「抽象的権利」としての側面がある)との理解を示したものといえる。

 

このような理解と同様の立場から、決定①の憲法適合性の23条の点につき、請求権的(抽象的権利の)構成を検討することが可能となる。なお、この構成をも設問1の段階から書くことが「できるだけ丁寧な説明」という設問1の要求に適うことになるものといえよう。

 

次に、もう1つ、後者(決定②の憲法適合性)の23条の自由権(防御権)構成に関し、簡単に解説する。この構成に関しては、いくつかの判例・裁判例等が参考になる。

 

まず、前掲載東大ポポロ事件は、「教授その他の研究者は,その研究の結果を大学の講義または演習において教授する自由を保障されるのである。そして,以上の自由は,すべて公共の福祉による制限を免れるものではないが,大学における自由は,右のような大学の本質に基づいて,一般の場合よりもある程度で広く認められると解される。」(下線引用者)としており、学問の自由の一内容とされる「教授の自由」[12]の内容等について判示している。

 

ただし、東大ポポロ事件は、国家権力(警察権力)との関係での判示である[13]が、佐賀地判平成22年7月16LLI/DB L06550389は、研究者の学問の自由と大学の自治とが対立関係[14]にある場合に、上記内容の研究者の自由が、当該研究者が所属する大学に対しても主張しうるものである旨判示している[15]

 

そして、以上の2判例は、単位認定権については明言していないとみられるところ、この点に関し、阪高平成28年3月22日LEX/DB25546469は、「指導担当教員の成績評価は憲法上の権利である教授の自由それ自体ではなく、教授に伴って付随的に生じるものに過ぎないこと、仮に、指導担当教員の成績評価に伴う権利又は利益が認められるとしても、それが控訴人が主張するようなものではなく、当該教員の学生に対する指導状況、当該教員が所属する学部の有する秩序維持の権能を行使する必要性等の観点から合理的制約を受けるものである。」としており、(「仮に」と留保は付けているものの)単位認定権が憲法23条に基づき認められうる余地がある旨判示したものと読める。なお、単位認定に係る成績評価権が「教授の自由に付随する権利又は利益」ではあるが、「教授の自由に伴う不可欠の」権利又は利益であるとの見解(学説)[16]があり、この見解によると、単位認定権は憲法23条に基づき保障されるものと解されよう。

 

さて、それでは以下のとおり、令和4年司法試験論文憲法設問1の答案例を示そう。

 

第1 設問1

1 決定①について

 

(1)決定①は23条に違反しない

 

ア 助成金交付請求権は23条で保障されない

 Yの研究助成金の交付請求権は、「学問の自由」(憲法(以下法名略)23条)のうちの学問研究の自由として保障されるものではない。

 すなわち、研究者の学問研究の自由は、国家の干渉を受けることなく自由に学問研究を遂行する自由[17]であるから、政府や大学の介入を排除する自由権(防御権)である[18]。また、X大学には、学問の自由の一内容として、同自由を保障するための制度的保障としての大学の自治が認められており[19]、研究研究費を大学の所属する研究者にどのように配分・交付するかは予算管理における自治[20]に基づき自主的に判断しうる事項である。したがって、Yの研究助成金の交付請求権は、学問の自由(憲法23条)で保障されるものではない。

 

イ 助成金交付請求権利が保障されるとしても23条に違反しない

 仮に、研究助成金の交付請求権が、学問研究の自由として保障されるとしても[21]生存権(25条1項)と同様にその内容が抽象的で不明確であることから抽象的権利と解され、その権利を実現すべき大学の制度がある場合に限り具体的請求権となるというべきである[22]。もっとも、X大学はA研究所研究員の申請に基づく助成金交付制度を設けているから、Yの研究助成金100万円の交付請求権は具体化されている。

 そのため、Yは、X大学側に対し、23条の趣旨及び本件助成金制度の趣旨・目的に適合するように解釈運用するよう請求する権利[23]を有している。

 しかし、次のとおり、Xは、上記各趣旨・目的に適合する解釈運用を行っている。すなわち、これまでXに交付された助成金は、A研究所のサーバー上にあるウェブサイト「Y研究室」の運営等、Yの国内出張に充てられているところ、同サイトは、Yの政治的意見や、X県の産業政策を批判・反対する活動を展開する団体Cの活動のためにも利用され、さらに。助成金がC主催の学習会へのYの出張費に充てられている[24]。これらのことから、「地域経済の復興に資する研究活動を支援する」という助成金制度の趣旨・目的[25]に適合しない形で使用されており、実社会の政治的社会的活動東大ポポロ事件)に当たる活動に用いられているのであって、真理の発見・探究[26]という23条の趣旨にも適合しない使われ方といえる。そして、助成金の3分の2以上が上記のような使途となっているから、次年度も同様に上記各趣旨・目的に適さない支出がなされる蓋然性が高い。

 よって、Yの上記憲法適合解釈請求権[27]は認められず、決定①は23条に違反しない。

 

(2)決定①は21条1項にも違反しない

ア 表現の自由は制限されていない

 上記(1)イ①~③のYの活動が実社会の政治的社会的活動であり、あるいはそのような性質の活動を多分に含むとすると、次に、決定①がYの「表現の自由」(21条1項)を侵害しないかが問題となる。

 この点につき、Yの表現行為は、決定①により何ら直接制約されていない。また、Yの助成金申請に際して、本件助成金制度の趣旨・目的に適さない過去のYの政治的な表現行為が申請の許否に係る「消極的な事情としてしんしゃくされないことまでの保障」がされていると解することはできない(マクリーン事件)というべきである。

 よって、Yの表現の自由制限されておらず[28]、決定①はYの表現の自由を侵害せず、21条1項に違反しない。

 

イ 大学の中立義務等にも違反していない

 Yの表現の自由が直接制約されていないとしても、表現活動(21条1項)に対する給付措置すなわち国家助成につき、国家は、特定の意見を不合理に優遇したり、これに不利益を与えてはならないという中立義務を負うものと解されることから、決定①(・②)との関係ではYと対立関係にあるX大学としてもこのような中立義務を負い、これに違反すれば同項に違反するとされる余地があると解される[29]

 しかし、そうであるとしても、助成金の交付申請に対する許否の判断については、大学の自治予算管理における自治)に基づく合理的な裁量[30]認められるから、中立義務に違反するか否かは、その判断過程が不合理なものである結果社会通念上著しく妥当性を欠く措置といえるか否かで判断すべきである[31]

 Yの活動に対しては、学内の一部の教員に加え、Dなど一部の議員や、X大学経営審議会の地元経済会出身の委員から、大要、Yの活動に本件助成金が用いられていることが本件助成金の趣旨・目的との関係で「ふさわしくない」などの批判がなされており[32]、次年度もXに助成金を交付すれば、X県の市民らに対し、政治活動に助成金を使っても問題ないという誤ったメッセージが発せられたものと受け取られるおそれがあり、ひいては本件助成制度への市民・国民の理解を損なうおそれがあること[33]YはC主催の講演会等の行使を無報酬で行っており、次年度助成金を不交付とされても適正な講演料等が得られる蓋然性があることも考慮すると、損害は多くても年60万円程度、月に5万円程度にとどまるといえること、Yは優れた研究業績があるのであるから科研費等の申請が通る蓋然性が高いといえることからすれば、判断過程は合理的であり、社会通念上著しく妥当性を欠く措置とはいえない。

 よって、決定①は大学の中立義務に違反するものではなく、21条1項に違反しない。

 

(3)決定①は14条1項にも違反しない

 なお、A研究所ではこれまで研究員に研究助成が認められなかった例がないこと[34]から、決定①が平等原則(14条1項)に違反しないかという点も問題になる[35]

 しかし、平等原則に違反するか否か、すなわち、Yだけに助成金を不交付とする区別が合理的[36]なものいえるか否かは、前述したとおり合理的な裁量が認められることから、上記(2)イの判断過程審査により判断すべきである。

 よって、上記(2)と同様の理由から、決定①は平等原則(14条1項)に違反しないものといえる。

 

2 決定②について

(1)教員の単位認定権は23条で保障されない

 Yが「地域経済論」の単位付与に係る合否判定・成績評価を行う権利(以下、「単位認定権」という。)は、「学問の自由」(23条)のうちの大学教授教授の自由東大ポポロ事件)の保障にとって不可欠の権利とまではいえず、教授の自由に含まれるものではない[37]。また、学生の卒業資格の認定については、大学の自治の一内容としての教育研究作用を進めるうえでの自治[38]に係る事項というべきであるから、卒業認定と関連性のある単位認定は学長あるいは学部長の権限の及ぶ事項といえ、ゆえに、特にこのような場合の単位認定権は、同条により保障されるものと解すべきではない。

 よって、卒業認定と関連性のあるYの単位認定権は同条により保障されず、決定②は23条に違反しない。

 

(2)単位認定権が保障されているとしても、完全な自由は保障はされず、その制約は許される

 仮にYの単位認定権が23条によって保障されるとしても、決定②によるその制約は正当化されるというべきである。

 確かに、大学生は、児童・生徒(旭川学テ事件[39]の場合)とは異なり教授内容に対する批判能力を十分に備えてはいるが、上記(1)の大学の自治が妥当する卒業認定と関わる問題であることから、研究の成果を大学の講義や演習で教授する自由(東大ポポロ事件)とは異なり、単位認定権については、完全な自由(教授の自由)を認めることはできない[40]

 そこで、必要かつ相当と認められる範囲で(旭川学テ事件)で、大学が、授業担当教授の授業の単位を認定する権能(権限)を有するというべきである。

 本件では、Yはブックレットを批判する答案には「十分な理由」を示すことを要求した旨主張するが、ブックレットを批判しない答案には「十分な理由」が示されているのか不明であり、評価として均衡を失する点があるといえる。また、Yは講義中に「再三にわたり」政治的活動を行っている団体Cへの加入を勧め、「参加申込書」の配布まで行っているのであるから、学生の単位が認定されないかもしれないとの不安感やリスクに乗じて団体Cへの参加を事実上強制した面があり、かかる状況下で不当な勧誘に応じなかった学生の多くが不合格の評価を受けたことは、自主的に真理を探究し学修するという授業目的に反するものといえる。さらに、6割以上の学生が5段階評価で4以上の評価をした点も、回答者としては上記②のような不当な勧誘を受けており、上記不安感などから授業評価を不当に高く回答した可能性もある。これら①~③より、Yの単位認定につき専門的な裁量があることを考慮としても、Yの成績評価は、学術的観点からなされるべき大学の成績評価として著しく妥当性を欠き裁量権を逸脱したものであるから、X大学(F・B学部教授会)としては「必要」と認められる範囲で単位認定を行ったといえる。加えて、Y担当の「地域経済論」の不合格者に限り再試験での成績評価を行ったのであるから、「相当」と認められる範囲での権能行使でもある。

 よって、決定②によるYの権利の制約は23条に違反するものではない。

 

 

 

以上、令和4年司法試験論文憲法の設問1の分析を試み、拙い答案例を公表した。

 

いわゆる「目的―手段審査」[41]を一度も使っていない答案例であることから、違和感を感じる方もいることだろう。

筆者としては、決定②の判断枠組み(前記第1の2(2)の判断枠組み)については、目的手段審査で処理するのもOKではないかとも思う。とはいえ、結局、設問の「必要に応じて、参考とすべき判例に言及すること」(太字強調筆者)という指定に適うように、旭川学テ事件の活用を試みたことから、(少なくとも設問1の部分では)目的手段審査なしの答案例となっている。

 

 

次回は、設問2の答案例を公表する予定である。

 

 

 

(本ブログは、筆者が所属する機関や団体の見解を述べるものなどではなく、個人的な意見等を公表するものです。この点、ご注意ください。)

 

 

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[1] 平成21年司法試験論文憲法の問題では、「大学の『規則』自体の違憲性の問題と処分違憲が問題」(平成21年司法試験論文憲法出題趣旨、下線引用者)とされていた。しかし、令和4年では、大学の規則自体(などの内部ルール、他に就業規則等がある)の違憲性の(主張の)検討は問われておらず、「処分違憲」の主張の検討のみが要求されているものと考えられる。もっとも、決定①・決定②の憲法適合性と書けば当然に処分違憲を論じていることは少なくとも本問では明らかであろうから、あえて処分違憲という語を答案に明示する必要はないと思われる。なお、憲法学の「処分違憲」は、「処分」(行政事件訴訟法3条2項)とは重なるものの、イコールではないことを念のため付言する。

[2] 渋谷秀樹『憲法(第3版)』(有斐閣、2017年)(以下「渋谷・憲法」という。)438頁は、学問研究の自由が「政府諸機関等公共団体の補助に大きく依存する」という現実を指摘しつつ、この補助についてはいわゆる「政府言論」と同様の効果が生じる可能性があり、特定の研究を優遇することにより他の研究は重要ではないというメッセージが発信され、それが不当な差別的取扱いとなれば「平等原則違反の問題が生じる」(下線引用者)とする。また、渡辺康行=宍戸常寿=松本和彦=工藤達朗『憲法Ⅰ 基本権』(日本評論社、2016年)(以下「渡辺ほか・憲法Ⅰ」という。)234頁〔宍戸〕に照らしてみても、14条1項の主張を検討するという構成も(一応)ありうる構成だといえよう(ただし、同234~235頁〔宍戸〕は14条1項構成は安定性・明証性に欠けるものと批判しており、見解中立性の(憲法上の)要請の観点からアプローチすべき旨論じる。同アプローチは、要するに国家の中立義務(小山・後掲(3)203頁)によるアプローチのことではないかと考えられる。)。

[3] 木村草太『憲法の急所―憲法論を組み立てる 第2版』(羽鳥書店、2017年)(以下「木村・急所」という。)26頁参照。なお、「憲法適合解釈」というワードは明記しないものの、同趣旨の論述をすべき旨解説する文献として、小山剛『「憲法上の権利」の作法 第3版』(尚学社、2016年)(以下「小山・作法」という。)121頁、岡山大学法科大学院公法系講座編著『岡山大学版教科書 憲法 事例問題起案の基礎』(岡山大学出版会、2018年)35~36頁。

[4] 「国家の中立義務」に関し、小山・作法202~205頁参照。ただし、本問では政府の中立義務ではなく、X県公立大学法人(あるいは県立X大学(のA研究所所長E教授))の中立義務が問題となるが、政府による給付に係る措置(不給付)の場合と同様に考えればよいだろう。なお、別に、「違憲な条件」論、「ベースライン」論、「専門家の介在」論といった様々な憲法理論やそれらに基づく多少は違った答案構成が考えられるところではあるが(同203~204頁)、本ブログ(の本文)では、基本的には国家の中立義務の活用のみに言及することとしたい(この憲法理論自体が合否を分けることにはならないと考えられる。むしろその先の規範定立と当てはめで勝負が決まるだろう。)。

[5] 最大判昭和53年10月4日民集32巻7号1223頁、愛敬浩二「判批」長谷部恭男=石川健治=宍戸常寿『憲法判例百選Ⅰ[第7版]』(有斐閣、2019年)(以下「百選Ⅰ」という。)4~5頁(1事件)。なお、平成27年司法試験論文憲法でも、マクリーン事件の活用が求められていた(蟻川恒正「2015年司法試験公法系第1問」418号(2015年)99頁(110頁)等参照)のであり、また、平成25年司法試験論文憲法でも、東大ポポロ事件の活用が求められていた(山元一=中林暁生=山本龍彦「公法系科目論文式式試験の問題と解説 公法系科目〔第1問〕―鼎談篇」法学セミナー編集部『別冊法学セミナー 新司法試験の問題と解説2013』(別冊法学セミナー222号、2013年、日本評論社)15頁(19頁〔山元〕は「ポポロ判決」に言及する))のであるから、本年(令和4年)も過去問を(正しく)潰す勉強は、相当程度試験対策に有効であったといえるだろう。

[6] 小山・作法43頁参照。

[7] なお、松本哲治「当事者主張想定型の問題について」曽我部真裕=赤坂幸一=新井誠=尾形健編『憲法論点教室 第2版』(日本評論社、2020年)214~216頁は、主張できそうなものを全部主張すれば良いわけではなく、試験時間の制約等を考慮して、主に実務的に違憲となる可能性の高い問題を取り上げて論じれば良い旨説く。

[8] 最大判昭和38年5月22日刑集17巻4号370頁、中富公一「判批」百選Ⅰ186~187頁(86事件)。

[9] なお、ここでも14条1項違反を検討することもできるだろう(設問2では一応書く余地はあろう)が、23条につき自由権・防御権構成によらない構成(中立義務を活用した構成等)と当てはめが重なってくると考えられるので、14条1項に係る論述の優先順位は最も低く、これを書くとしても分量は少なめでOKだろう(ただし、筆者は、少なくとも、決定②との関係では、設問2においても14条1項論の論述は一切不要であると考えている)。

[10] 訴訟になった場合に損害賠償請求をするには、国家賠償法1条1項ではなく、民法709条に基づく請求も考えられるところであり、むしろ(特に決定①は)後者の構成が妥当ではないかと思われる。そして、不法行為民法709条)責任を追及するケースは、私人間効力の問題である(ただし、三菱樹脂事件のような問題設定や規範を採用することはしていない)旨解されているところである(渡辺ほか・憲法Ⅰ53頁〔宍戸〕参照)。

[11] 大浜啓吉「学問の自由とは何か」科学86巻10号(2016年)1049頁(1054頁、下線引用者)。https://www.iwanami.co.jp/kagaku/Kagaku_201610_Ohama.pdf

なお、中富公一編著『憲法のちから―身近な問題から憲法の役割を考える』(法律文化社、2021年)205頁〔中富公一〕は、「表現の自由は、自分の語る内容を誤りだとか望ましくないとか思っている人から、それを語っている間、支援や援助を受け続けるという権利ではないが、学問の自由は人々が何を書き、述べ、あるいは教えようと、大学等が彼らに支援や援助を与えるよう要求している」という法哲学者ドナルド・ドゥオーキン(1931-2013年)の説明を紹介する。これは学問の自由を大学人の「特権」としての説明するものであり、法的権利である抽象的権利とは性質を異にするものと解されることから(中林暁生「給付と人権」『岩波講座 憲法2 人権論の新展開』(岩波書店、2007年)263頁(265頁))、答案例では「特権」という語は避けている。

[12] 芦部信喜著・高橋和之補訂『憲法 第七版』(岩波書店、2019年)(以下「芦部・憲法」という。)173頁は、学問の自由の内容につき、「学問研究の自由、研究発表の自由、教授の自由の3つのものがある」とする。

[13] 中富公一「講座会議は教員の成績評価権を制約できるか」岡山大学法学会雑誌68巻1号(2018年)166頁(157頁)。https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/5/56211/20180914092349966587/olj_68_1_(001)_(042).pdf

[14] 平成21年司法試験論文憲法の採点実感は、「憲法第23条は一方で原告(個々の研究者)の研究の自由を保障するが,他方で研究者の所属する大学の自治をも保障する。大学の自治は通常,学問の自由を保障するための制度的保障であると理解されているが,本問では,両者は対立関係にあるため,これをどう調整するのかという問題を避けて通ることはできない。この点を十分検討している答案は,余り見られなかった。」(下線引用者)とする。なお、大学経営者vs教授会という対立構図を「大学の自治をめぐる今日的問題」して指摘・解説する文献として、新井誠=曽我部真裕=佐々木くみ=横大道聡『憲法Ⅱ 人権 第2版』(日本評論社、2021年)181頁〔横大道〕。

[15] 佐賀地判平成22年7月16LLI/DB L06550389は、「大学教員にとって,学生に教授することは,その学問研究の成果の発現の機会であるとともに,学生との対話等を通じて更に学問研究を深め,発展させるための重要かつ不可欠な場であるというべきである。そして,学生に対する研究指導は,大学教員の行う研究活動と密接に関連し,また,学生に対する教授内容の中核をなすものといえるものである。以上のことからすれば,大学教員にとって,学生の研究指導をすることは,単なる義務にとどまらず,権利でもあると解するのが相当である。」(下線引用者)とした上で、「原告は,農学研究科の准教授であるから(中略),大学院生を研究指導をする権利を有しているといえる。加えて,原告は,相談依頼者による申立てがされるまでは,学部生の卒論指導を行っていたこと(中略)からすれば,少なくとも学部生を研究指導(卒論指導)する法的利益を有していると解するのが相当である。」とする。

[16] 中富・前掲注(13)156頁。

[17] 渡辺ほか・憲法Ⅰ202頁〔松本〕参照。

[18] 渋谷・憲法438頁は、「研究の自由の基本は政府の介入を排除する権利であり、積極的に研究費の補助を請求する権利ではない」とし、松井茂記日本国憲法〈第3版〉』(有斐閣、2007年)496頁も、「学問の自由の保障は、高度の専門的知識としての学問・真理の探究としての学問への政治の非介入の原則を宣言したものと理解されている」する。

[19] 新井ほか・憲法Ⅱ176頁〔横大道〕、芦部・憲法176頁参照。

[20] 佐藤幸治日本国憲法論[第2版]』(成文堂、2020年)(以下「佐藤・憲法」という。)274頁。

[21] この「イ」の主張はXの反論内容を含むので、そのような内容は、設問2で書いても良いだろう。

[22] 芦部・憲法279頁、渡辺ほか・憲法Ⅰ368頁〔工藤〕参照。

[23] 木村・急所26頁等参照。

[24] 問題文第7段落を中心に事実を摘示した。

[25] 問題文第1段落4~5行目、同第7段落6行目からすると、助成ないし助成金制度の「趣旨」と「目的」を同じ意義で用いて良い(厳密には多少違うのかもしれないが)と考えられる。

[26] 芦部・憲法173頁は「学問の自由の中心は、真理の発見・探究を目的とする研究の自由である」とする。なお、設問1の答案には答案政策的に反映させてはいないが、同頁が「の中心は」と留保をつけていると読める(と考えられる)点には注意が必要だろう。この点につき、阪本昌成『憲法理論Ⅲ』(成文堂、1995年)179~180頁は、「従来の通説は、学問をもって、『真理』を探究する論理的知的な精神活動をいう、と理解してきた」が、「学問は『真理』探究に限られない、と考えるのが正しい」とし、「真理性と無関係な人間の欲求・情動や社会という秩序等に関する学問が成立する以上、『真理』を基礎として学問を定義することは、視野が狭すぎる」とする。加えて、同180頁は、「人の知的営為が、個別的・実戦的な活動の集積によって、次第に体系化されて『学問』へと展開されることを考えた場合、理論上はともかく、実際に『学問/信仰』、『学問/表現』を識別することは、困難」であり、「人の知は日常的な実践知と体系的な技術知からなると考える立場からすれば、完成された知識体系だけを学問と呼ぶことは避けなければならない」とする。阪本教授のこの解説は、令和4年司法試験論文憲法との関係でも重要な解説であると考えられ、特に設問2で活かせる(活かすべき)内容であるものといえよう。

[27] 木村・急所26頁。

[28] 小山・作法43頁参照。なお、ここでは、「萎縮効果」(同頁)の点にはあえて触れず、この点は設問2のYの反論段階から言及することにした。

[29] 小山・作法204頁参照。この点は、中立義務以外の構成でも(「違憲な条件」論、「ベースライン」論、「専門家の介在」論(同203~204頁)などでも)書き得るところではああろうが、本答案例では、国家の中立義務の活用のみに言及することにした。したがって、他の構成を排除すべきとの趣旨に出た答案の叙述ではないことに留意されたい。

[30] ここは「合理的な裁量」ではなく、「広い裁量」あるいは「広範な裁量」と書く方がより実務的であるし、妥当であるようにも思われる。しかし、ここでは、あえて設問2の反論や私見との(いわば)かみ合わせをよくするなどの見地から、「合理的な裁量」とした(合理的な裁量という語は、実務的に、広い・広範な裁量よりもやや裁量が狭い意味で使われることが多いように思われる)。

[31] この部分の判断枠組み(規範)は、東京高裁令和4年3月3日裁判所ウェブサイト・令和3年(行コ)第180号映画「宮本から君へ」助成金不交付事件・高裁判決)でも、助成金不交付処分につき、いわゆる判断過程審査(正確にはそれに近い判断枠組み)が採用されたことを参考にした(百選収載判例ではないことなどから、判例名は書いていない)。もっとも、同判決の判断枠組みは、実質的には1つの考慮事項(公益的事項なる事項)のみを重視することになってしまう、本来の判断過程審査とは異なる内容の独自の判断枠組みであるというべきである。このような判断枠組みが確定してしまうことは極めて不合理であることから、上告・上告受理申立てがなされている(本ブログ筆者は、上告人・上告受理申立人(原告・被控訴人)代理人の一人である)。

なお、この映画「宮本から君へ」助成金不交付事件の第一審の評釈(複数ある)については、前回のブログ(「令和4年司法試験論文憲法の分析(2)司法試験と政治」)の後掲注(8)を参照されたい。

[32] 問題文第6段落参照。あいちトリエンナーレ2019補助金不交付問題の契機となった事実関係(著名な政治家らによる「表現の不自由展・その後」に関する否定的な発言)を強く想起させる事実関係である。なお、この問題に関しては様々な文献があるが、憲法学者によるものとして、①蟻川恒正「国家と文化―『表現の不自由展・その後』をめぐって」岡本有佳=アライ=ヒロユキ編『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件(岩波書店、2019年)3頁(同文献7頁で蟻川教授自身が引用している、蟻川恒正「国家と文化」『岩波講座 現代の法1 現代国家と法』(岩波書店、1997年)191頁も参照されたい。)、②市川正人「『表現の自由』を改めて考える―表現の自由の保障の意味」法と民主主義543号(2019年)16頁、③志田陽子「『芸術の自由』をめぐる憲法問題―支援の中の「自由」とは」法と民主主義543号(2019年)20頁、④木村草太「あいちトリエンナーレ問題について」自治労通信796号(2019年)20頁、⑤駒村圭吾憲法問題としての芸術―表現の自由保障“生誕100年”に寄せて」法学セミナー786号(2020年)10頁、⑥横大道聡「表現の自由の現代的論点―〈表現の場〉の〈設定のルール〉について」法学セミナー786号(2020年)24頁、⑦中島徹憲法でみる「表現の不自由展・その後」―契約は憲法を超えるか」法学セミナー786号(2020年)34頁。また、「あいちトリエンナーレ2019」を知るための基本的な文献として、あいちトリエンナーレ実行委員会編・津田大介監修『あいちトリエンナーレ2019 情の時代 Taming Y/Our Passion』(生活の友社、2020年)。

[33] 映画「宮本から君へ」助成金不交付事件・高裁判決の「観客等に対し,『国は薬物犯罪に寛容である』,『違法薬物を使用した犯罪者であっても国は大目に見てくれる』という誤ったメッセージを控訴人が発したと受け取られ,薬物に対する許容的な態度が一般的に広まり,ひいては,控訴人が行う助成制度への国民の理解を損なうおそれがあるというべきである。」という判示を参考にした。この点の評価は分かれるというべきであり、本ブログ筆者は、この判示は、著しく不合理な法的評価を行ったものであると考えている。このことに関し、平裕介「映画『宮本から君へ』助成金不交付訴訟・東京高裁判決の問題点と表現の自由の『将来』のための闘い」(2022年)法学館憲法研究所ウェブサイト

http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber/20220404_02.html

なお、原告代理人の立場から同事件の第一審判決(請求認容判決)を解説した拙稿として、平裕介「文化芸術助成に係る行政裁量の統制と裁量基準着目型判断過程審査」法学セミナー804号(2022年)2頁。

[34] 問題文第7段落7行目。

[35] 渋谷・憲法438頁。

[36] 芦部・憲法132頁。「合理的」は、いわゆる「相対的平等」に係るキーワードである。

[37] 清野惇「現行法と大学の自治」寄川条路編著『大学の自治と学問の自由』(晃洋書房、2020年)33頁(40頁)参照。

[38] 佐藤・憲法274頁参照。

[39] 最大判昭和51年5月21日刑集30巻5号615頁、今野健一「判批」長谷部恭男=石川健治=宍戸常寿『憲法判例百選Ⅱ[第7版]』(有斐閣、2019年)296~297頁(136事件)。

[40] 旭川学テ事件の「完全な教授の自由を認めることは,とうてい許されない」という判示を意識している叙述である。

[41] 高橋和之立憲主義日本国憲法 第5版』(有斐閣、2020年)283頁。