平 裕介(弁護士・公法研究者)のブログ

主に司法試験と予備試験の論文式試験(憲法・行政法)に関する感想を書いています。

「司法修習生への給費制復活」に関する記事と,政教分離「衝突」型事案の答案との共通点

1 「司法修習生への給費制復活」に関する記事に関して

 

先日,法律時報2017年4月号の司法修習生への給費制復活に関する記事[1]につき,複数の弁護士の先生方(あるいはそれ以外の方々)の,‘法科大学院’の教員が給費制の復活(一部復活)を批判して云々[2]といったツイートなどに接したことから,私も気になり,先ほど読んでみたところである。

 

しかし,著者の先生の肩書は,「早稲田大学教授、第33期司法修習生」となっており,どこにも「法科大学院教授」とは書いていない。

 

とすると,先生方はインターネットなどで検索・確認したのか,あるいは検索等しなくても当然知っていたのか…ということになる。

 

確かに,この記事に関心を持つ読者(研究者,法曹,法学部生・法科大学院等)の一定数は,筆者の先生の肩書きなどについても(肩書きを知らない場合には)検索するものと思われる。このことからすると,「法科大学院」の教員として,あたかも特定の法科大学院を代表して,意思表明をしているような「印象」を,一時的にせよ,読者が受けてしまうことも,もしかしたらあるのかもしれない。

 

とはいえ,もちろん,個々の教員の考えていることは異なりうるし,弁護士会の会長声明等のように,法科大学院長としての意見表明などの形式を採っているわけでもないため,そのような「印象」が持たれることがないように(一応)なっているものという捉え方もできる。

筆者の先生は,自分自身が「法科大学院」の教員であることを特に強調する趣旨のことは書いていないように思われるし,その主観的意図はさておき,早稲田大学法科大学院の教員一同を代表して意見をいったとか,大学の公式見解として原稿を書いたとは捉えられないようになっているだろう。

 

また,少なくとも研究者や法曹・法学部生・法科大学院生等ではない一般人は,通常,上記給費制に関する記事の著者の先生が法科大学院の教授か,法学部の教授か,あるいは他学部の教授かなど,この記事だけからは分からないのではないかと思われる。つまり,この記事自体から,この著者の先生が早稲田大学の「法科大学院」を代表して特定の意見を述べたということは,客観的には(特に上記一般人には)通常読み取れないものといわなければならない。

 

もっとも,前述した(一時的にせよ)読者が受けうる「印象」につき,ネット上を中心に発言がなされると,どうなるだろうか(なお,一時的な印象はツイートにつながり易いということもあろう)。

例えば,弁護士の先生が筆者の先生の所属する法科大学院につき,もうこんな法科大学院には協力したくないとか,修習生が可哀想だなどといったツイートをし,それがリツイートされたりするということもあるかもしれない。

 

このようなことになれば,上記一般人は特に,下手をすると,記事を全く読んでいなくても,筆者の先生が「法科大学院の教授」として意見を述べただとか,あるいは,あたかも他の同じ大学の(ないし法科大学院全体の)教員の先生方も筆者の先生と同じ意見であるなどと,一時的にせよ,「誤解」してしまう者も出てくるだろう。「誤解」の連鎖である。

 

とすると,筆者の先生としては,上記「誤解」を防ぐために,どこかに,例えば「これは個人の見解であり,筆者が所属する法科大学院の公式見解ではありません。」などとあえて書いておかなければならなかったのだろうか。

 

しかし,それは,あたかも,映画『シン・ゴジラ』の終わりで,「これはあくまでフィクションですから,映画館を出る際にはどうぞ早く現実にお戻りください。」とか,『君の名は。』の冒頭において,「現実に,人間と人間の中味が入れ替わることは決してありません。これは周知の事実ですが,その上でご覧下さい。」とすることと同種に評しうるものといえよう・・・・・・などといったりすると,「それは極端な例えだ」とか「言いすぎだぞ,クソ」などと批判されるかもしれないが,まぁ本質的には一緒ではないかと思われる。つまり,これらの注意書きを「書かない」という選択こそが一つの「表現」(憲法21条1項)なのである。

 

このように,個人の何らかの言動が,‘他者からどのように見られるか’という問題は,読者のある種の「誤解」をも想定するなど,様々なことを考慮して判断されるべきことなのかもしれない。ただ,筆者の先生としては,そこまで考えなければならなかたのだろうか…。

 

 

2 政教分離原則(「衝突」型)に関して

 

ところで,旧司法試験では,ある個人や国家の何らかの言動が,‘他者からどのように見られるか’という問題が,政教分離原則が問題となる事案において,問題文の事実の評価の対象となっているものと考えられる。

 

すなわち,後掲の旧司法試験論文式試験・平成10年憲法第1問改題の政教分離原則が個人の精神的自由(信教の自由等)と「衝突」[3]するタイプの事案における規範の<あてはめ>の部分(「答案例」4(2)イの下線部)で聞かれているのではないかと理解することが可能であろう。

 

そこで以下,その具体例として,やや唐突ではあるが,この「衝突」型の旧司法試験の過去問を題材にした問題とその答案例を示すこととする。

 

なお,政教分離が出るのは,司法試験論文憲法では周期的に平成30年以降と予想され,平成29年司法試験では出ないと思われる[4]

 

とはいえ,平成29年予備試験では分からない。とすると,問題や答案例が「Xの立場からの憲法上の主張とこれに対して想定される反論との対立点を明確にしつつ,あなた自身の見解を述べなさい。」という形式(平成28年予備試験論文憲法のもの)のものになっていた方が,受験生に親切であることは間違いない。

 

しかし,以下の問題と答案例は,あくまで,上記の‘他者からどのように見られるか’という問題が,政教分離原則の「衝突」型の事案の答案でもみられることを示す趣旨で書くものであり,加えて,元のデータが,私が合格した年に法科大学院修了生への受験指導で用いたものを殆どコピペしたもの(空知太事件の最高裁判例も考慮していないもの)であることから,特に予備試験受験生各位におかれてはご容赦いただきたく思う。(ご容赦いただく理由として,全く合理的なものになっていないかもしれないが…。)

 

 

(問題:旧司法試験論文式試験・平成10年憲法第1問改題)

公立A高校で文化祭を開催するに当たり,A高校は,A高校の生徒全員に対し,5組を限度に,文化祭当日にA高校の講堂を用いて行う自由な内容の研究発表を募ったところ,キリスト教のある宗派を信仰している生徒Xら1組だけが,その宗派の成立と発展に関する研究発表を行いたいと応募した。

これに対して,校長Yは,毎年多くの一般市民が訪れる学校行事の1つである文化祭で特定の宗派に関する宗教活動を支援することは,政教分離原則に基づく公立学校における宗教的中立性の原則に違反することになるなどの理由から,Xらの研究発表を認めないという措置(以下,「本件措置」という。)をとった。

本件措置について,Xらは,「自分たちが信仰している宗教の宗派の成立と発展に関する研究発表を行う自由は,憲法上の自由として保障されている。YがXらの研究発表を認めても,政教分離原則に反することにはなるとはいえないし,一切認めないというのは行き過ぎた制約である。」としてYの措置は違憲であると主張している。

Xらの主張に対して,Yは,「Xらの自由が憲法上保障されるとしても,公立高校がXらの研究発表を認めてXらに教室などの施設を提供することになれば,それは特定の宗派の宗教活動を支援することにほかならず,また,他の宗教や宗派などにも影響を与えることになりかねない。したがって,Yの措置は,憲法上の政教分離原則に違反することとならないようにするための必要な制約である。」としてYの本件措置は合憲であると反論している。

本件措置は違憲か。あなたの見解を論じなさい。

 

 

(答案例)

1 Yの本件措置は,Xらの公立A高校における特定の宗派の成立と発展に関する研究発表を行う自由(以下,「本件自由」という。)を侵害し,違憲か。

2 本件自由の性格について

(1)本件自由は,A高校の文化祭開催時に,公立A高校という公の施設内において,キリスト教のある特定の宗派を「信仰」する者が,A高校の研究発表の募集に応じて,その「宗派の成立と発展」に関する「研究発表」を行うという自由である。

(2)本件自由は,特定の宗派を信仰する者がその宗派の起源等を紹介することで間接的には布教活動にもつながるという側面を持つので,憲法(以下略)20条1項前段「信教の自由」のうちの宗教的行為の自由としての性格を有する。また,布教活動等の宗教的行為そのものとは直接には関係のない宗派の成立と発展という歴史的事実・学術的事項の「研究」を発表するという側面も持つので,23条の「学問の自由」のうちの研究発表の自由としての性格を併有する。

(3)したがって,本件自由は,20条1項前段及び23条により保障される複合的な側面を持つ自由であるといえる。また,仮にこれらの条文によっては保障されないとしても,Xの人格発展に資するため表現の自由21条1項)により保障されると考える。

3 もっとも,本件自由も研究発表という外部的行為を行うことなどから無制約ではなく「公共の福祉」(13条後段)による制約を受ける。本件では,政教分離原則20条1項後段,同条3項,89条前段)の表れである「公立学校における宗教的中立性の原則」という憲法上の重要な要請により必要最小限度の制約を受ける。

4 では,本件措置は必要最小限度の制約として合憲といえるか。

(1)本件措置の合憲性を判断するための違憲審査基準が問題となる。

  この点につき,宗教的行為の自由も研究発表の自由も,個人の人格的生存に不可欠な人権である。また,生徒が学園祭で研究内容を自主的に考え,外部者へ向けて発表するという自由は,生徒の自主創造の力を育て,人格を成長・発展させるという重要な性質をも有している。

  しかし,他方で,信教の自由をより厚く保護するための制度的保障と解される政教分離原則と抵触しうるという本件自由についての制約の本来的可能性や,公的施設を授業以外の活動に関して利用する場合の問題であり,施設管理者(校長)の一定の裁量的判断が及びうる余地もあることから,厳格審査基準によることは適当ではない。

  そこで,本件では,同基準よりは緩やかである基準すなわち規制目的が重要であり,かつ,その目的と目的達成のための手段との間に実質的関連性が認められなければ違憲とする審査基準により合憲性を判定すべきである[5]

(2)あてはめ

ア 前述したように,「公立学校における宗教的中立性の原則」は,信教の自由をより厚く保護するための制度的保障たる政教分離原則の表れであるから,規制目的自体は重要と考える。

イ(ア)では,上記目的と本件措置との間に実質的関連性はあるか。A高校内でのXらの研究発表をそのまま認めることが政教分離原則に反することとなるのか,仮に反しうるとしても,より制限的でない他に選び得る手段はないのかが問題となる。

 思うに,政教分離原則は,特に少数者の信教の自由の保障を確保するものであり,宗教が国家統治の道具とされたという歴史的沿革にも照らせば,国家は宗教に基本的には介入すべきではない。他方,国家と宗教の完全な分離は事実上不可能に近く,また,かえって不合理な事態を招く

  そこで,国家と宗教のかかわり合いを一切許さないというのではなく,①当該行為の目的が宗教的意義を持ち,かつ,②その効果が宗教に対する援助・助長・促進または圧迫・干渉等になるような行為については,両者のかかわり合いが相当とされる限度を超えるものとして,政教分離原則に違反すると解する(目的効果基準,津地鎮祭事件判決に同旨)。

 (イ)以上の目的効果基準を本件につき検討すると,①A高校がXらの研究発表を行わせるとしても,それは正規の授業ではない学園祭開催時に限り,一部の生徒の自主的な研究発表の場所を提供するだけという世俗的なものにすぎない。また,発表内容もキリスト教という歴史の教科書にも記載のある一般的な宗教のうちの宗派の成立と発展に関するものであり,布教活動等の宗教的行為そのものとは直接は関係のない歴史的事実・学術的事項の発表であるから,宗教的意義を持つものではないと考える。もっとも,発表者が特定の宗派を信仰するXらであることから布教活動等と関係があると捉えうる余地もあり,そうすると,Xらの場所を提供することは宗教的意義を持ちうるということになる。

 そこで,②についても検討を加えると,() Xら1組だけの発表につき,公立学校の教室等ではなく「講堂」の利用を認め,()A高校の学園祭には毎年多数の一般市民が訪れ,様々な宗教を信仰する者や無宗教者が訪れることに照らせば,来場した者によってはXらがA高校生徒の代表者であり,その信仰する宗派だけをA高校が厚遇するイメージを与えかねず,Xらの信仰する宗派への援助・助長・促進の効果及び他の宗教・無宗教者に対する圧迫・干渉等の効果が生じる危険があると考えられる。しかし,例えば,発表する場所を「講堂」ではなく多少規模の小さい「教室」等とし,教室等の入り口等見える場所に「この研究発表は一部の生徒が学園祭時に限り自主的な研究発表を行うもので,A高校は場所の提供以上のこと(金員支出等)をしていない」旨の掲示等をした上で発表を行わせれば上記各効果は生じず,国家と宗教とのかかわり合いが相当とされる限度を超えず,政教分離原則に違反しないこととなるものと考える。

ウ したがって,上記のように規制目的と本件措置との間に一定の関連性がありうるとしても,より制限的でない他に選び得る手段(代替措置)が存在し,しかもかかる代替措置は容易になしうるものであるから,講堂を使用させず,発表を一切禁止するという本件措置は,実質的関連性を欠くと考える[6]

 なお,このような判断は,本件と同様に,原告が剣道実技の履修義務免除を求め,消極的な宗教的行為の自由という精神的自由に関わる生徒の利益と,政教分離原則に基づく公教育の宗教的中立性との抵触・調整が問題となった事案につき,レポート提出等の代替措置の存在等を理由に市立高専の剣道実技拒否による単位不認定措置等を違法と判示した剣道実技拒否事件と比較しても,適当な結論であるというべきである。

(3)以上より,本件措置は,違憲である。

                                 以上

 

 

以上,「司法修習生への給費制復活」に関する記事[7]政教分離原則(「衝突」型)の答案との共通点について述べた。上記問題と答案例については,1つの叩き台として,適宜参考にしていただければ幸甚である。

 

 

 

[1] 須網隆夫「司法修習生への給費制復活」法律時報89巻4号1~3頁(2017年)。

[2] 国語辞典には「でんでん」とは書いていなかったが,私の所有する国語辞典に載っていなかっただけかもしれないので,私自身が調査義務を怠っているのかもしれない。

[3] 坂田仰「判批」(東京地判昭和61年3月20日解説)長谷部恭男石川健治=宍戸常寿編『憲法判例百選〔第6版〕』(有斐閣,2013年)94頁以下(95頁)。

[4] 保証はできない。

[5] 高橋和之立憲主義日本国憲法 第4版』(有斐閣,2017年)137頁の「中間審査基準」と採るものである。

[6] 高橋・前掲注(5)137頁の立場を前提としている。

[7] なお,この記事を読み,給費制の存続に関する「署名」を集めたことを思い出した。あのときご協力いただいた多くの学生の皆様及び学生以外の方々にあらためて感謝いたします。

 

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